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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.164

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月22日(木)07時50分53秒
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  (「第32講」その5)



 8、本来自然は、善に造られたものであるが―――それは神が万物を造られた時に、見て善いとされた―――人の悪の結果、自然万物も、滅亡に定められた。(ロマ書§8:19~22)

 これは、私たちがよく知っているところですね。すべて亡びに定められた者は、亡びの様から救われることを待ち望んでいる(ロマ書§8:21)。自然はこの世にあって、人の惨めさに、自然そのものがいわば感染しているのです。

例えて言えば、結核患者を憐れんで看病する人が、自分も結核に感染しているようなもので、自然と意志とは、同病相憐れんで、等しくこの惨めな状態からの解放を待つ。

アウグスティヌスは、自然をあるがままに善と見たから、その自然観は、あるいはその宇宙観は、至って明朗であるが、他面パウロの深刻さを欠く嫌いがあるのではなかろうか。

 アウグスティヌスの自然観が、非常に明朗であるということは、今日筆記したところでもよく分かりますが、前回の第22章のこの世の惨めさ―――人間のいろいろの不幸―――は、戦争とか危険とか、人間に関したこと、それから思いがけない災難ということは書いてありますが、

自然が悩んでいる、自然が完成をまっている、すなわち自然そのものが、美しい、新しい自然となることを嘆き求めているというふうには、アウグスティヌスは見ていない。

パウロがロマ書で言っているようなことは、アウグスティヌスの自然観には入ってこない。

 これが、どこから来ているのかは、もちろん私たちの想像でしかありませんが、一つにはプラトン学派の影響でありましょう。と言うと少し語弊もありますが。

なぜなら、プラトン学派においては、ことに新プラトン学派では、肉体を軽蔑したのですから、アウグスティヌスの自然観がそこから来たと言えば言い過ぎでしょうが、概してギリシャ哲学は、明朗であって、罪についての深刻な自覚がない。

その哲学的影響と、もう一つはアウグスティヌスがアフリカの人であって、至って自然の豊かな、光の豊富な所にいたという郷土的な影響もあるだろうと思います。

ルターのような、陰鬱な北欧の地にいた人とは、自然を見るについても、自ずから観察が多少は違ったろうと思う。

それで「自然は善であり美しいものだ。自然を広い意味にとると、人間自身もその中にあるわけです。人間の体も人間の心もすべて神から自然に与えられたものですが、その他の外物も、すべて神によって造られたものであって、神はそれを善く造られた。

人が罪を犯しても、その美しさが残っている。しかし、人が罪を犯した結果、その美しさが傷ついた。傷ついた美しさであって、至る所に傷痕が見える。

それだけでなく、本来善い、美しい自然が、反って悪の手段として用いられるという矛盾したことが分かる。これは人が罪を犯した結果で、人自身もまた自然なるものも、亡びの様から免れて、そして神の子たちの栄光に入れられる」

―――そう考えるのが、聖書の世界観であって、おそらくそれが正しいと思うのです。

 しかし、アウグスティヌスが力説していることは、観念的な神と、神学的な神、すなわち実在としての神と、父としての神との関連をつけたこと、またはつけようとしていることであり、それから自然の意味、自然と人生との意味付けをしようとしている。これは私たちに参考となるところでしょう。

 思想的に言うと、アウグスティヌスの中から、プロテスタントも出てくるし、カトリックも出てくる。両方の思想がアウグスティヌスから流れ出たと言われているのですが、近頃はどうか知らない。

二三年前日本で流行したバルト神学などというものは、カルビニズムを極端にしたようなもので、人間には本来善なるものは、何一つない。神を信じる信仰そのものが、神から与えられた恩寵でしかあり得ない―――こういうことを極端に言うのです。

 そうすると、私たちがもつ疑問は、人間の中にその恩寵を受けるべき素質もないときに、それを受け取ることができるか。

その人間も神によって造られたのですが、神に象(かたど)られたものとして造られているからこそ、神の恩寵を受けることができる。要するにバルト神学というものは、自然というものを、全く駆逐する考えです。

 その他、先ほど言ったように、文明や文化などを悪魔の業と見るという考え方が、プロテスタントの神学の中に、かなり根強く入っている。そういうことについて、私たちはもう一度、それは真理であるかも知れないが、しかしもう一度納得いくまで考え直す必要があるんじゃないかという意味です。

 初めの方に述べたことは、哲学と歴史と聖書の三つの上に、アウグスティヌスの論証が立っている。これは、哲学ばかりで、あるいは歴史ばかりで、あるいは聖書だけで議論しているよりもずっと有効です。

 アウグスティヌスが半ば自分の説を弁護し、半ば自分が批判の対象としたプラトン派、新プラトン派は、当時においての一流の哲学であったし、歴史は歴史家のヴァロの本に主に依って、またこれを批判し、そのほかフィロとかキケロとか、ローマの名高い文学者、論説家の本を見ている。

聖書は、聖書と注解とを見ている。要するに、哲学と歴史と聖書とにわたって、当時第一流の権威を基礎とし、またこれを批判の対象として、神の国を論証しているのです。

アウグスティヌスの学問が、それだけ広かったのであって、神の国を論証するのに、ただ聖書の中だけで論証するのは、論証はできますが、それは世間一般に訴える力はそう強くない。制限があります。

哲学や歴史に訴え、またこれを批判することによって、一面聖書の教えによって、これを高めることによって論証した方が、ずっと有力なのです。

 アウグスティヌスの哲学・歴史・聖書の解釈の個々を取ってみると、それは、私たちには承服できないものがある。

ヴァロの歴史は、アウグスティヌス時代には非常な権威だったが、今日ではヴァロの歴史などというものは、伝わっていないし、アウグスティヌスが引用したところによってみても、ヴァロの歴史学というものは、大したものではない。

そんなに歴史として権威を与えられるものでもないし、哲学は、プラトンは偉いが、哲学だってアウグスティヌスが依って立つところの哲学批判の対象とした哲学も、永遠的な効力は確定されないし、聖書解釈もそうです。

アウグスティヌスの聖書解釈は、今から見れば、非常なこじつけ、あるいは間違って解釈しています。

 それで結局、一つ一つのものは永遠の価値がない。「知識は廃(すた)れ預言はやむ」(第一コリント§13:8)ということは、全くのことだと思うのです。

 ただ、彼の神の国に対する愛は永遠であって、愛が生きているから、それでこの本が多くの部分において時代遅れであるにもかかわらず、全体として存在理由がある。

私たちがこれを読んで面白いということになりますが、もし神の国に対するアウグスティヌスの愛が、生きて全篇を流れていなかったならば、この本はずいぶん退屈な本でしょう。

しかし、アウグスティヌスの真理に対する熱愛というものがあるから、この本を読んで、くだらない本と思わない。私たちは興味を感じる。

なるほどアウグスティヌスの時代の人は、こういうことを考えていた。アウグスティヌスという人は、こういうことを考え、こういうことに興味をもったと思いますが、その本を生かしているものは、神の国に対する彼の熱心な愛であることは、明らかだと思うのです。

 社会科学の研究が足りないということは、これはアウグスティヌスの当時において、そういう学問は今日ほど発達していませんでした。

また、アウグスティヌス自身の過去の学問から言っても、彼は哲学、文学、歴史学に興味を持った人であり、政治とか社会の問題について、直接学問した人でないし、興味をもたなかった人です。

だから、時代の関係と彼自身の関係から、アウグスティヌスに社会科学の研究が足りないということは止むを得ませんが、しかし、神の国とこの世の国との関連は、今日においてはアウグスティヌスの時代とは比較にならないほど重要な意味をもっています。

今の私たちから言いますと、国家の本質とか、あるいは法律の本質とかについて、少しはアウグスティヌスも述べていますが、もっと詳しく述べておいてもらいたかったような気がします。

 結局一人の人に何もかもお願いすることはできないわけで、アウグスティヌスに足りないところは、他の人に勉強してもらう。他の人に足りないところは、自分で勉強するしかありません。


              「神の国」講義完


 ご一緒に「神の国」をお読みいただき、ありがとうございました。この土曜講座は、どなたかの筆記を基にしているようで、ところどころ意味が取れない所がありました。そのような個所では、私の解釈が前面に出ています。
 また、原文の意味を損なわないという前提で、文を短くしたり、語句を変えたり、英語の表記を省いたりして、なるべく読みやすいように変えたつもりです。

ですから、矢内原先生の文に親しんでおられる人がこの掲示板を読んだ場合、文の格調の高さなどが失われているとお感じになっても当然だと思います。そのような至らなさについては、御容赦ください。

 なお、この掲示板への新しい書き込みは、当分の間お休みしたいと思います。

 関連ブログをお読みいただければ幸いです。
 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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