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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.163

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月21日(水)07時50分38秒
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  (「第32講」その4)

 私はこれで、神の恩沢によって、この大きな書物を書くという、私の義務を果たしたと考える。私が述べたことが少なすぎたところ、もしくは多すぎたところは、私を許していただきたい。しかし、ちょうど良いだけ私が述べたと思う者は、私と共に神に感謝を捧げてください。 アーメン。

 これが終りなのだ。アウグスティヌスが、ある点においては、多く述べ過ぎたと思い、ある点においては、述べ足りなかったと思う者でも、彼と一緒に神を讃美していいのだろう。

アウグスティヌスの時代において、これが長すぎたか短すぎたか。当時の人の要求や意見は、それはまた今日の私たちの見どころとは違うでしょう。この書物は、413年から426年まで、13年間もかかって、その間にぼつぼつ書いたもので、アウグスティヌスの著書の中でも大著です。

 この書物について、私たちは読んだというだけのことであって、しかもアウグスティヌスではないが、ある所においては説明が短すぎたり、ある所においては長すぎたりして、それについてはお許しくださいだが、アウグスティヌスについての、あるいは学問の歴史におけるアウグスティヌスの位置を論じるだけ、私たちは未だ勉強していない。

ただ、「神の国」を読んだ感想を述べてみますから、ちょっとそれを書いて、諸君が考える材料にしてください。


 「神の国」について

 1、これは哲学と歴史と聖書とにわたる神の国の論証であって、そのいずれか一つだけに基づく論証よりも有力である。

 2、哲学と歴史と聖書解釈におけるアウグスティヌスのそれぞれの説は、一時的な価値しかもたないとしても、神の国論証における彼の熱意、すなわち神の国への愛は、永遠的価値をもつ。知識は廃れるが、愛は永遠に立つ。

 3、社会科学的な考察(研究)が不足であって、したがってこの世における神の国と地の国との交渉関連の研究が足りない。

 4、神についての観念的形而上学的把握(ギリシャ的、ギリシャ哲学から来た考え)と神学的道徳的把握(ユダヤ的、聖書から来た考え)、このプラトン的および聖書的な考えの統一総合が、アウグスティヌスにおいて、著しく見られる。それが、アウグスティヌスの特色である。

 5、善悪についての自然的観念的解釈と、意志的悪として見る道徳的解釈との関係。

 これは、アウグスティヌスが善を自然(natura)と見て、自然(natura)ことごとく善である、神はすべてのものを、善くお造りになったという意味の善と、意志が神に従うことを善と見る、道徳的な意味の善―――悪についても同じですが―――が両方述べられていて、ある点においては統一しており、ある点においては不十分のように感じられる。多く議論すると難しいことになるが、問題だけ挙げておく。

 6、アウグスティヌスには、強い肯定と、来世肯定とが、共に存している。彼の自然肯定は、現世主義(この世主義)の意味での現世肯定ではない。アウグスティヌスのように、自然そのものを善と見ることも疑問があるが、自然そのものを悪と見る嫌いがあるプロテスタント神学も反省を要するであろう。


 アウグスティヌスは、自然は善であると言う。神はすべてのものを、善に造られた。自然は善であると言う。善というのは、秩序もしくは調和という観念であったでしょう。

それで、創造の調和もしくは秩序ということが、すなわち道徳的な善であるか、あるいは道徳的な善と、どのように関連させ、どのように統一してそれを考えることができるか。それが(5)で挙げた問題なのです。

 神が造られた万物の調和が、自然としての善であり、そして神の意志に対して、人間の意志の調和が道徳的善である。そう言ってみれば、自然における調和と意志の調和と、調和が善であるということに統一して考えられるのであって、調和しないものが悪である。

自然の不調和が悪であるし、神の意志に対して、人間の意志の不調和が道徳的悪である。そうなりますが、自然そのもの、存在そのものがすなわち善であると言えば、アウグスティヌスがしばしば言ったように、悪魔の中にも善があるなどという議論になってしまって、悪魔の意志は悪であるが、自然は善である。

そして、悪魔の自然は滅ぶことがないというのですから、悪魔の自然は永遠の刑罰の中においても存在し、彼は意志の罪によって、永遠の刑罰を受けるが、これを刑罰と感じる彼の自然は永続しているということになり、矛盾しているようになる。

 だから、道徳的な善と、存在の善とが、しばしば混同される。それで、アウグスティヌスは自然を強く肯定して、自然は善であると言っている。しかし、この世は不幸であると言っている。

その議論は、アウグスティヌスにおいては、彼は現世主義者(世俗主義者)ではないが、いつでも接近する危険がある。存在ことごとくが善であると言うのですから、極端に走ると、一切のことを是認することになります。

けれども、プラトン派のある哲学者は、反対の極端に立って、自然はみな悪であり、善なるものはことごとく、私たちの本性以外のところから来るのである。造られたままのもの、生まれながらのものは、ことごとく悪である、ということを極端に言います。

そのように極端に立つと、すべて自然万物の中に現れている美しさを、私たちが味わうこともできないし、また、人間の心の働き、すなわち文明とか文化とか技術とかそんなものは、すべてサタン的なもの、悪魔的なものと考えなければならない。

これは、神を信じる者でも、信じない物でも、共に従事することのできる能力ですから、すべてそれはサタン的であると言って、自然の美しさも否定し、文明、文化、技術の発達も否定して、あれは悪魔のものであると言いながら、自分たちはやはり文明、文化に浴している。

汽車などというものは、悪魔の発明だなどと言っておきながら、自分も汽車に乗っている。悪魔の発明ならば、汽車なんかに乗らなければよさそうなものだが。

食べたり飲んだりするのだって、すべて悪魔を利用していることになる。これは、自然はことごとく悪と見る人たちが、行きすぎていることの証拠ですね。

 それで、存在としての善ということ―――自然の善 bonum naturae―――と、意志の善ということとの関係を、私たちは考究しなければならないことになる。

 要するに、自然に与えられているものは、人間の心の働きでも、体でも、体以外の自然万物でも、自然に備えられているものは、要するにそのもの自体が徳の主体であることはできないのであり、善悪の根源は人の意志にあると考えなければならない。

人の意志は善であって、万物を善に用いれば、万物は善となり、善のために働き役立つ。これを悪く用いれば、悪のために働くことになるだろうと思います。


 7、自然そのものは善であるとしても、人が悪をなす機会もしくは手段となる場合には、その自然は実際上悪と不可分ではないか。ところが善は悪と不可分ではあり得ない。善と悪とは、離れることができないということはない。

ゆえに自然が善であるというのは、道徳的に善であるという意味と異なるのではないか。「もし汝の右の手なんぢを躓かせば、之を切り去れ、不具にて生命に入るは、両手ありて……」(マルコ§9:43)。その言葉を考えてみなさい。

 ここで言う意味はこうです。自然が善であるということは、存在として、他の存在と調和していることであるが、しかし道徳の善と調和するときにおいてだけ、自然は道徳的善に役立つのである。

だから自然の意味における調和と、道徳の善とが調和しないことがある。例えば、「もし右の手なんぢを躓かせば……」(マタイ§5:30、マルコ§9:43~48)ということ、右の手というのは、それは非常に美しい。体に調和している。自分の体の一部として調和しているのです。

ところが、そういう調和している右の手、自然の意味における善が、汝を躓かせることが、あり得るのです。これを切り去れとキリストが言っておられるのは、もちろん譬えですが、手を切り去ったところで、意志そのものが悪魔的である限りは、少しも生命に入ることはできません。

それは言うまでもないことですが、自然の調和は、道徳的善に衝突することがある。自然の不調和が、かえって道徳的善に一致することがある。例えば片輪で生命に入るのは、両手があってゲヘナの火に投げ入れられるよりもいい(マタイ§5:30、マルコ§9:43~48)。

すなわち自然の不調和よりも、道徳的善に調和した、神の意志に人間の意志が調和した方がいいという意味です

あるいは、酒を飲むことでも、酒は穀物もしくは果物の汁であって、これは甚だ美味しいものである。そして、有用な役に立つものであるし、また美しいものである。自然として、非常な調和の中にあり、美的なもので、実用もあって、これは善である。

それならば、酒は真に善であるかと言うと、善のために働くこともあるし、善でないことのために働くこともある。人が躓く機会になり手段になる。そういう時には、酒樽を捨ててしまう。自然の意味における善を破壊する。

ある私の知っている人の奥さんが女丈夫で、主人が酒を飲みたくてしようがない。亭主が酒を買ってくると、奥さんがそれをどこかに隠すということで、数年間戦って、とうとう亭主をキリスト者にした。

そんな美しいものを破壊するのはなぜかというと、自然の調和によって生産された物が、道徳的な善と調和しなかったからです。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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