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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.162

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月20日(火)07時57分6秒
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  (「第32講」その3)

 第29章~第30章

 復活体の浄福

 復活した聖徒の体がどのように用いられるか、その使用もしくは休息の性質を了解することは、困難である。なぜなら、それは肉体的感覚の領域内に来ることはないからである。

 アウグスティヌスは、これから神を見るということについて、議論をしています。どういう議論をしているかというと、第29章に書いてあるのです。

復活体において神を見るというが、聖書にそう書いてあるが、それはいったい、肉体の目で見るのだろうか、どうだろうかという問題を掲げています。

そして、目はつぶっていても見えるに違いない。復活した後に神を見ることは、体の目はあいていても、つぶっていても、見える。だからこれは、霊によって見るのである。霊によって霊なる神を見るのである。

 しかし、それならば、目はどうか。復活体についている目は、何の役をするか。目はあらゆる有体物を見る。ちょうど今我々があらゆる有体物を肉眼で見るように、復活した後の復活体の目も、あらゆる有体物を見る。

そしてあらゆる有体物の中に現れている神を見るのである。それは、肉眼で見るので、今日でも私たちは、人を見るのは肉眼で見るのだが、人が生きているところを見るのは、やはり肉眼で見るのであり、人の体を見ると共に、その人の生命を見る。

死骸を見るのと、生きた人を見るのとでは、そこに違いがある。死骸を見るときには、死骸だけを見るのである。その一方、生きた人間を見るときには、体と生命を見るのである。

だから復活体においても、復活体の目は、いろんな物を見る。自分の体を見たり、人の体を見たり、その他の自然物の有体物を見るときに、物そのものを見ると共に、その物に宿っている神を見る。

だから復活した後に神を見るということは、目をつぶっていても霊によって神を見ることもあるだろう。目を開けていて、目で有体物の中に神を見る。霊の目と体の目の両方で神を見る。

神は霊的である。人間の霊によっては直接に霊的な神を見、人間の体の目では有体物に現れている神を見る。そう考えるべきだという議論をしているのです。



 第30章

 何らの悪に染まず、何らの善に欠けず、すべての中にあって、すべてである神の讃美に余暇を供する、かの幸は、いかに大きいであろうか。

今日各種の必要ないろいろな用途に用いられている身体の各部は、朽ちない体、復活体にあっては、ことごとく神の讃美に貢献するだろう。すべて、かの生活においては、必要はもはや存せず、十分であって確実な永遠の福祉があるだけだからである。

その身体各部の調和、身体の運動の力を叙述することは難しい。そこに真の名誉、真の平和がある。徳の造り主である神御自身が、徳に対する御褒美であろう。

各人それぞれの値する程度が異なるに従い、与えられるべき名誉と光栄の度を異にするであろうが、この浄福の都の大きな浄福として、劣った者が優っている者を嫉妬することはないであろう。

 これもなかなか面白い言葉ですね。この名誉と光栄の差、その他財産でも何でもそうですが、程度の差があることが、なぜいけないかと言えば、嫉妬があるからですね。嫉妬がなければ、名誉と光栄の度に差があることは、少しも邪魔にならない。のみならず、全体の調和と美を発揮するゆえんだろうと思う。

絵だって、色の濃淡があればこそ、色が美しい。みな一色に塗りつぶされたのでは、とても絵にならない。すべて均一にしてしまって、みな国防服に身を固めるようでは、とても美しくないですね。あれが背の高さまで均一にしてしまってごらんなさい。実用にも立たないし、美しくもない。

それぞれの徳の程度に大小があるから、それによって名誉と光栄の度が異なる。嫉妬さえなければ、それは全体の美を非常に発揮するところですね。

 天国のことは、アウグスティヌスが言っているように、感覚の領域に入ってこない。だから見たように話をすることは、できません。ただ信仰によって語るだけですが、天国に行けば、すべて均一であると思うのは、非常に杓子定規の空想のように思われます。


 来世にあっては、罪は人間を誘惑する力はないが―――人は罪を犯して喜ぶということはないが―――しかしそのために自由意志が失われるものと、思うべきではない。

自由意志の結果、罪が犯されたが、罪がなくなるからと言って、自由意志がなくなると思ってはいけない。かえっていっそう真に自由となるべきである。

人間が創造されたときに与えられた最初の自由意志は、罪を犯さないでいられる力であると共に、罪を犯し得る力であったが、この最後の自由意志は、罪を犯すことができないものであるから、いっそう優れた自由である。これは、その本性の能力ではなく、神の賜物である。

神は、神の本性から言って、罪を犯すことができず、神に交わる者は、この無能力―――罪を犯す力がないというこの無能力―――を受けるのである。

この都―――神の都―――にあっては、各市民に自由意志があり、それはすべての悪から救われ、すべての善で満たされ、永遠の喜びの歓喜を楽しみ、罪を忘れ、苦しみを忘却し、しかもその救いを、救主に感謝しないほどに忘却することはないであろう。

霊魂は、その過去の悪の知識としての記憶をもつが、感覚的経験に関する限り、過去の悪を全く忘れてしまうであろう。なぜなら、もし彼らがかつて憐れむべき者であったことを知るのでなければ、どうして永久に神の憐れみを歌うことができようか。

 最後に言ったことは、こういう意味です。自由意志と言っても、何でもできるというのが、本当の自由ではない。悪いことはできないのが、本当の自由だ。

神は自由である。しかし、神は罪を犯すことができない。罪を犯すことができないということが、真の自由だ。意志が意志するところが、ことごとく善、それが本当の自由だ。

そういう意味の自由は、人間の自然として与えられたわけではない。人間が生まれながらにもっているというのではない。だから罪を犯した最初の人が与えられた自由意志の性質は、神が自由であるというのと同じ意味ではない。

それは、程度の低い自由意志であって、それで人間が罪を犯した。最後に復活のときに、神と同じ性質の自由意志を、天国において与えられる。それは、真に自由なのだ。自由意志の無能力とあるが、その自由意志によって、神を讃美するのだ。

 最後に、神の憐れみを讃美するについては、自分が憐れまれた者であるということを、知っていなければならない。自分がかつて罪人であって、それが救われたということまで忘れてしまっては、神に讃美もできないではないか。

例えば知識と経験ということを、アウグスティヌスは医者の例を引いて、述べています。医者が患者の病気を診て、知識としては病気のことをよく知っているが、しかし、医者自身は病気の経験をもっていない。

そういうもので、天国に行って人は過去の悪について、知識としての記憶をもっている。自分は罪人であったことは知っているが、しかし経験としては忘れてしまう。自分が悪をなしたことは忘れてしまって、知識としてだけもっている。知識としての記憶もなくなってしまえば、讃美できないではないかと言っています。

 この議論は、非常に巧妙な議論のようですが、しかしまた、ずいぶん疑問を挟む余地もあります。知識と経験を、そんなに切り離して考えることができるか。自分が過去に悪をなしたことは忘れてしまうが、自分が罪人であったということは知っている。

自分の意志が罪を犯したことは忘れてしまうが、しかし神に背いたのは、罪であったということを覚えている。そんなことが可能か。

他人についての知識と、自分についての経験を切り離して考えることはできないし、自分についての知識と自分についての経験の記憶とをそんなに切り離して考えることはできないでしょう。

昔は罪というものがあったそうだということを記憶して、自分がその罪を犯したということを記憶しない。あるいは、自分が昔罪を犯したそうだということを知っているが、それが少しも苦痛を与えないというようなことを考えることは、非常に困難です。

アウグスティヌスは、過去の罪の知識をも忘れてしまうのでは、讃美できないじゃないかと言うが、しかしそう言うならば、罪を犯さなかった天使は、神を讃美することができないではないか。

だから来世に救い上げられた霊魂は、過去の罪は感覚的経験としてはもちろんのこと、知識的経験としても全然忘れてしまっても、神を讃美することはできる。すなわち、神が善であることだけを記憶し、また善であることだけを見て、讃美できる。

悪がなければ善があり得ないとは人間のこの世の生涯だけのことであって、悪がなくても善というものはある。その善を来世において私たちは楽しんで、神を讃美することができる。

アウグスティヌスは、記憶については、特別に学問的興味をもっているようですが、最後の議論については、どうかと思います。

私たちは、感覚的経験はもちろんのこと、知的経験においても、過去の悪など記憶していたくない。そんなものを覚えていては、重荷になって、神に対する讃美が、非常に哀れなものになってしまう気がします。


 この大なる安息日において、私たちは憩い、見て神を愛し、讃美するであろう。これは、終わりのない終りにおいて、あるべきことである。本当の最後であって、それが永遠である。だから「終わりのない終り」と言っている。

なぜなら、終わりのない幸福、永遠の幸福に到達する以外に、どのような幸福を、私たちは自らのために定め得ようか。これが人生の終局の目的である。

 説明しておきます。安息日ということを言っています。アウグスティヌスは人類の歴史を、アダムからノアまで、ノアからアブラハムまでというふうに順々に数えて、キリスト降誕の時までに経た、神の天地創造のいわば五日間は過ぎていることになると言っています。

そうすると、キリスト以後現代は、六日目になる。その六日目の長さは、いつまで続くか分からない。その時その日を知る者は、誰もいない(マタイ伝§25:13)とキリストが言っておられるのだから、いつまで続くか分からない。

その点は、近頃の再臨論者よりも、アウグスティヌスの方が、ずっと健全ですね。いつまで続くか分からないが、ともかくこの次に来るのは、第七日目である。その安息日において、七日目に到達する。

 それで本文が終ります。

(以下次回に続く)

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