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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.161

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月19日(月)08時11分28秒
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  (「第32講」その2)

 人を傷害するためにもまた、いかに多くの種類の毒物や破壊の器具が発明されたか。一方では、健康の維持および回復のための処置、医薬は、数え難いほどである。異端者および哲学者の誤謬、間違い、誤解の説の証明にさえ、その中に輝かされた天才を、十分述べ尽くすことはできない。

現在において、この朽ちるこの世を飾るものは、人の心の自然であり、あるいは本性―――本性と言っても自然と言っても意味がよく出ませんね―――であり、不死に導く信仰と、真理の道とにあるのではない。

この偉大な自然は、至誠の真の神によって造られたことが確かであるから、人類の始祖アダムの罪がよほど大きかったのでなければ、人類はこの世を永遠の不幸に陥れたこともまた、あり得なかったであろう。


 説明しておきます。最後にお話したのは、人間の心の働きの微妙なこと、そして能力のあることを、アウグスティヌスが述べたのであり、初めにあったのは、赤ん坊の時代には眠っていたような自然、本性が大人になって目覚めて知識を学ぶ力をもち、また教育を受け、真なるもの善なるものを悟って、これを愛する。

そしていろいろ思慮分別をつけ、徳を吸収して悪と戦って、至高不変の神を求める。その驚くべき力を、人間の心というものはもっている。それは、神がそういう性質を賦与されておられるからだ。

 このような道徳以外にも、もっと実用的な方面を見ても、人間の心は、いろんな技術を発明している。全部を書き上げたわけではありません。

途中略していますが、いろんな職布、建築、農業、航海とか、その他陶器、絵画、彫刻等のいろんな技術を考え出す力、すなわち発明する力またこれを用いる力は驚くべきものだ。

人を害したりするためにさえも、いろんなものを工夫している。異端者と哲学者―――哲学者というのは、ギリシャの哲学者―――の間違った、あるいは不完全な論証についてさえも、天才が輝いている。この天才、能力を神は人間に賦与しておられるのである。

だから人類が犯した罪がよほど大きくなかったら、とても人類の不幸ということは、こんなにはあり得ないだろう。それほど神が自然にお与えになった善は大きい。また人類が犯した罪が大きいということを意味しているわけです。


 さらに人の身体は獣のように死に、多くの点において獣よりも弱いものであるが、その中に、どのような神の善、どのような造り主の知恵が現れているか。(以下人体の用途と美とを述べています。身体の外部だけでなく、内部の構造の調和の美を述べて、人体の創造においては、実用よりも美に多くの考慮が払われていると言っています。)

 筆記を簡単にしましたが、実に美しいところであって、アウグスティヌスは人間の体の各部分に、いろんな働きがある、また美をもっていることを述べています。

アウグスティヌスの美に関する論は、調和と整合が彼の美学ですから、人体の外部に美があるだけでなく、内部にも美がある。神経系統や血管にも美(整合)があるように思う。

アウグスティヌスの言葉によると、医者の中には残酷な学問的な熱心をもって身体を解剖する人がいる。解剖学者と言っている。

その者たちは自分が手術して死んだ者さえ解剖するといった非人道的なことをするが、その目的は、その病原がどこにあって、それを治療するにはどうすればいいかを発見するためである。今の解剖学者と同じですね。

そうして身体の内部の構造を調べるが、しかし、神経や血管の構造の調和を見出すことはできないと言っている。しかし、人類の知恵が発達して、よく分かれば、人間の体の内部においても、美しい調和があるのだろうと、アウグスティヌスが言っています。

 それから、美と実用について言っていることは、人間の体の部分は、両者共通である。実用であってまた美であるのが多いが、美だけであって、実用のないものもある。

例えば男の乳などというものは実用でない。それからひげもそうだ。もしひげに守る効用があるならば、女の方に必要だろうと言っている。どうかね、はやしてみるか。だから男子の乳やひげなどというものは、美のためだ。

アウグスティヌスが言うには、必要というのは、この世限りのことだ。天国に行って、朽ちない体になると、今人間の体の各部分のもっている実用は、意味を失うものが多いのだ。しかし、美というものは永遠である。

これはなかなか面白い考えですね。神が人間の体を造ったのは、美と実用を兼ねてお造りになったが、どちらが主かと言えば、美の方が主だ。人間の体は、外側も内側もことごとく美である。実用のない美もあると言っている。なかなか観察が細かいですね。


 神の善が人の目を喜ばせ、また人の目的に役立たせるために、人にお与えになった、その他の創造の美と効用とを、どうしたら述べることができるだろうか。

空と地と海との多種多様な美について語ろうか。光の豊かな供給―――ある人が指摘して言うには、アウグスティヌスには、光が非常に沢山出てきているのです。光の哲学者と言ってもいいくらいに、たびたび出てくる―――と、驚嘆すべき性質について、花の色と香りとについて、羽毛と歌とすべて異なる鳥の群れについて、動物の種類について語ろうか。

動物の中の最少なものが、しばしば最も驚異である。蟻と蜜蜂の業は鯨の巨大さよりも、いっそう私たちを驚かせる。

私は、海について語ろうか。いわば種々の色彩の着物をつけて今あらゆる度合いの緑に流れるかと思えば、再び紫もしくは青となって横たわる。海そのものが甚だ大いなる観物である。

 最後にあった、海についての叙述は、実にうまいですね。こういうところを読むと、アウグスティヌスは全く詩人であったと思う。詩人は非常によく観察しなければ、詩は作れないのであって、アウグスティヌスの生き届いた観察が、名文を生んだのですね。

海が緑のあらゆる度合いで流れるかと思うと、次にまた紫また青となって静かになる。これは、観察の結果であって、自分で見たに違いない。海そのものが大きな観物であって、その他いろんな海に関する叙述があります。嵐のすばらしい叙述がある。

いろいろな人間の食べ物や着物を供給されることを述べています。木の実などについてもいろいろ述べていますが、それは略します。


 誰が、私たちが受けるすべての祝福を数えることができるであろうか。しかし、すべてこれらのものは、罪に定められた憐れむべき者の慰藉に過ぎず、祝福された者に与えられる褒賞ではない。この世は哀れな状態であるから、それに対する慰めとして与えられているに過ぎない。

だからもし罪に定められたこの世において与えられている祝福が、こんなものであるとするならば、祝福された者の報いは、どれほどであろうか。もはや何ら悪徳のない人の霊魂は、どれほど幸いな状態になるであろうか。また体はどのようになるであろうか。

それは、あらゆる点において、霊魂に従い、霊魂から十分生命を得て、他の糧を必要としなくなるであろう。

なぜなら、それはもはや血気ではなくて、霊的であり、肉の実体をもってはいるが、何ら肉的腐朽をもつことがないからである。

 それが、第24章の大意です。先ほど言ったように、自然の美を賞賛し、自然の中の人間の生殖および胎生のことから、人の心の造られたこと、また心の働きを述べて、心の働きの中の道徳と、広い意味の文化の働きを賞賛し、

それから人間の体の外部および内部の構造を賞賛し、自然の美しさ、また自然が人間の衣食住を供給するその役目を眺めて、神が造られたものに賦与された本性は善でかつ美であることを、褒め称えています。



 第25章~第28章

 身体の復活に関する哲学者の論

 哲学者の大部分は、来世における霊的幸福については、私たちと一致するものであるが、ただ肉体の復活については、彼らはこれを否定する。

しかし、プラトンによれば、霊魂は体なしには永遠に存在することができないと言い、ポルフリーは、聖(きよ)められた霊魂は、再び朽ちてしまう身体の不幸な生活に帰ることがないと言っており、両者の説の優れたところを取って結び合わせれば、キリスト教の信仰と一致するであろう。

 肉体の復活を否定する議論およびそれに対する反駁は、前にありましたが、ここでも議論の順序として、またそれに返ってきたわけです。

来世における霊魂の幸福においては、ギリシャの哲学者と、キリスト教とは意見が違わないが、ただ問題になるのは、肉体が復活することであって、これはギリシャの哲学者たちは否定している。

しかし、そこに書いたように、ポルフリーは、霊魂が肉体に帰ることを否定して、霊魂が肉体を離れることがすなわち幸福だ、肉体は不幸の源なのだから、それから離れることが、霊魂の幸福なのだと言っている。

しかし、ポルフリーの先生株であるプラトンの説によると、神々でさえも、肉体を離れないようにということを、至高の神にお願いした。至高の神は、神々に対して、また聖い人に対して、賢人の霊魂に対して、肉体を与える力をもっている。

ただこの世が、不幸な哀れな世であるから、それでポルフリーのような説ができたのだが、ギリシャの哲学者のプラトンとポルフリーの説を合わせてみれば、霊魂はポルフリーが心配するように、朽ちる体に帰ると思わずに、朽ちない体に帰ってくることにすれば、キリスト教の信仰に一致するじゃないか。

それでギリシャの哲学者自身が、議論を整理してくれば、すなわちプラトンが言うように霊魂は肉体に帰ってくるが、ポルフリーが心配するような朽ちる体ではなく、朽ちない体に帰ると考えれば、収まるじゃないか。もう一歩進んで来いというわけです。

 その他にも、二三の哲学者の説、例えばヴァロとかキケロなどの説を述べていますが、煩わしいから略します。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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