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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.159

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月15日(木)07時53分3秒
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  (「第31講」その6)

(「第12章~第20章」その2)

それから、一番大きい人の体の大きさに準じて復活するかということは、どこから来ているかと言うと、ルカ伝第21章の18節に「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくさない」という言葉があるのです。

それで髪の毛一本さえ失われないというのだから、もっているものは少しもなくならないと言うが、もたないものを付け加えてやるとは言っていないと言うのですね。

それはどういう関係になるかと言うと、……そうそう、これには前提が一つあるのです。すべての人が一様に完全な人として復活するという前提がある。

そうするとその完全な人は、どのくらいの大きさだろうかと言うと、もし平均的な中ぐらいの人間をとると、ある者は自分のもっているものの一部を取り去られてしまうわけだから、髪の毛一本さえなくさないという言葉に矛盾するというわけだ。

何か失われる。平均より背の高いものは、背の高さがとられる。平均よりも小さい者はどうかと言うと、もたないものを付け加えられる。けれどもキリストはそんなことは約束しておられないのだから、これは一番大きい者を標準として考えると、一番大きい人は失わない。

それ以下の者は、先ほど言った能力によって、そこまで伸び得ると考えて、完全というものは、一番大きい人の水準まで達する。そう考えてよかろう。

けれどもそれには先ほど言ったように反対論があって、もたない者が与えられることになるのだから、一番大きい人を標準に取ることには無理がある。

 それならば、キリストの大きさに達するのであろうか。これはエペソ書第4章13節に、「我らをしてみな信仰と神の子を知る知識とに一致せしめ、全き人すなはちキリストの満ちたれるほどに至らせ、(新共同訳では、「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」)とあります。

「ほど」の原語は「大きさ」ですから、「満ちたりた大きさに至らせ」ということになるのです。キリストの満ちたりた大きさにまで至らせなのだから、そこで各人の復活体は、キリストと同じ大きさに達するのであろうか。

アウグスティヌスのもっていたヴルガータ、ラテン語の聖書では、「キリストの完き齢の大きさに至らせ」とある。私たちのもっている聖書では、「齢」という語が省かれています。省いた方が正確なのでしょうが、「齢」という語がなければ、「キリストと同じ大きさに至らせ」だから、キリストと同じ大きさに、皆がなる。

しかし、アウグスティヌスが言うには、そういうことはない。これはキリストの齢の大きさは30歳なのだから、キリストは30歳でなくなられたのだ。人間というものは、30歳まで発達する。30歳に達すると発育が止まって、それからはだんだん小さくなっていく。

キリストの齢の大きさというのは、人間が最も発育した絶頂において、各人が復活すると考えればいいだろう。だから老人は若返り、子どもは発育して、発育の絶頂の大きさで復活すると考えていいだろう。

けれども先ほど言ったように、アウグスティヌスはそれには固執しない。各々が死んだ時の大きさで復活すると考えてもよかろうと言っているのです。

 女はどうかというと、これは今言ったエペソ書第4章13節の「完き大きさに至らせ」さらにロマ書第8章29節に、「神は預じめ知りたまふ者を御子の像に象らせんと預じめ定めたまへり」とある。

「御子の像に象らせんと」というのだから、御子キリストは男だから、それで男の像に象らせるのだから、女でもみな男になるということになる。

それに対して、アウグスティヌスが言うには、これは霊的に解釈すべきであって、神が男と女とに分けてお造りになったのは、神を讃美するためである。だから来世においては、男女の別に基づいた肉情は消滅するが、男女の別は神を讃美するためにあり続けるだろう。

 そのほかのことでは、爪や髪の毛はどうだろうというと、髪の毛一すじでも損なわれないというと、散髪屋さんで散髪した髪の毛や切った爪もみな復活するとなると、爪はたいへんな長さになるし、髪の毛はぼうぼうとして、ひげはもじゃもじゃとして、ずいぶん汚いじゃないか、と言って冷やかす者がいる。

それに対してアウグスティヌスが言うには、髪の毛を失わずというのは、長さを言っているのではなく、数のことである。「一すじ」という数を言っているのだろう。爪もそうであって、切り捨てた爪全部ということでなくて、爪の数だと解釈しなければならない。

 不具は片輪のままに復活するかと言うと、そんなことはないだろう。ただし殉教者が殉教のために受けた傷痕は、復活してもあり得る。

なぜなら、殉教者が受けた傷痕は、これは名誉の印であって、醜いものではない。輝かしいものであるから、それは残るだろう。ただし、手足を切られた者、それはただ痕(あと)だけ。このように細かい議論をしています。

獣に食われたもの、水中や空中に分散したもの、火に焼かれたもの、人間に食われた人間というのは、最大の難問であったと思います。いつかもお話しましたが、復活を冷やかす議論として、今でも言われていることですね。それは、アウグスティヌスが問題をあげて、自ら答えていることなのです。

 アウグスティヌスは、こういう説明をしているのです。人に食われた人の体の部分は、蒸発によって外に出る。そして、神によって集められて、元の人に返される。食われた肉は、貸したお金のようなものだから、貸主に返ると言っています。

 復活体について、こういうようなことをいちいち咎めだてし、詮索して議論するのは、全く冷やかすための議論であり、いちいち答えたからと言って、復活の証明ができるわけでなし、答えることができないからと言って、復活が否定されることもありません。

いわゆる枝葉末節の議論ですが、しかし先ほど言ったように、アウグスティヌスは丹念な人であり、すべての疑問に対して、大きい疑問も小さい疑問も、ことごとく答えていくたちの人ですから、詳しくこれを数え上げました。

 しかしまた、反面から見ると、先ほど言ったように、復活を冷かすとか、奇跡を冷やかす議論は、今でも絶えていませんが、今の人が冷やかす議論は、アウグスティヌスの時にもあったのであり、

それに対してアウグスティヌスがいちいち答えているのですから、私たちがこいう問題においても、冷やかしを受けたときには、そんな問題はとっくに片付いている。

今から1500年前に、もう済んだ問題だということができる。それだけのことをアウグスティヌスはしておいてくれました。そう考えてもいいでしょう。

 今日はそこまでにします。


(「第31講」完)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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