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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.158

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月14日(水)07時48分1秒
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  (「第31講」その5)

 第8章~第10章

 現代の奇跡について

 反対者が問うていわく、果たして奇跡が前になされたのであるならば、何ゆえ今日奇跡がなされないかと。

答えて言う―――アウグスティヌスが答えて言うのに―――奇跡は世界が信じる前に、それ(世界)(キリストを)信じるために必要であった。今日において(キリスロを)信じることができるようになるために奇跡を要求する人は、妙な人である。なぜなら、全人類が信じることを、彼が信じないからである。

かつ今日においても、キリストのサクラメント―――洗礼とか聖餐とかの礼典です―――により、もしくは聖徒の祈りまた遺物によって、キリストの名において、奇跡がなされることがある。ただ昔の奇跡に比して、顕著でないだけである。

ことに世界が広くなったので、一地方に起こった奇跡が、世界全体の住民に知られないことがある。


 この奇跡論の初めのところも正しいことですね。奇跡ということは、世界の必要に応じて行われるものであって、キリストの復活昇天ということを世界が信じない時に、信じさせる必要から、奇跡があった。

今ではそのことが、確立されたことであるから、奇跡の必要がない。今は奇跡以外の方法によって、そのことが論証される。奇跡という方法は、真理証明の一つの方法なのですから、ある時には奇跡によって証明し、ある時には奇跡を必要としない。他の方法がある。

アウグスティヌスはここではなく、前に学んだところで言っていることですが、キリストの弟子たちが迫害殉教を恐れずに、キリストの復活と昇天とを証明した。それが証明の方法です。

キリストの名のために、迫害殉教を恐れなかったことが、一つの奇跡である。つまりキリストが神であることの、証明の方法なのです。

だから、アウグスティヌスが言っていることを私たちが解釈すれば、今の時代においてキリスト当時の奇跡を要求する者は、時代錯誤に陥っているのです。

今はキリストが神であることを信じようと思えば、他の人々がいかに、この信仰のために一身を犠牲にしようとしているかを見ればいい。それを見ればそれが証明である。

しかし、今日でも奇跡が行われていないことはない。アウグスティヌスは、自分が知っている奇跡でもずいぶんあると言って、彼はここに21の例を挙げています。

それを見ますと、今日の医者が医学雑誌にいろんな病気の例を報告しているのに似ています。アウグスティヌスが監督をしていたヒッポだけでも70ある。

盲人の目が開いたとか、悪い腫瘍が癒されたとか、婦人の乳がんが癒されたとか、その他いろんな例を沢山挙げています。ずいぶん面白い。中には迷信的なこともあります。



 第11章~第20章

 ここでは、復活を否定し、もしくは嘲笑する多くの説について述べています。


 第11章

 プラトン学派の反対論に基づく反対論(第13巻第18章参照)。 一度あった議論です。それをここでまた繰り返しているのです。

プラトン学派は、世界の元素は四つあって、一等下が土で、その上が水で、その上が空気で、その上が天、エーテル界と四つに分けた。だんだん上になればなるほど軽い。そういう宇宙論をもっているので、土からできた人間の体が天に昇るということは、重みの法則から言って不可能である、と言っている。

それに対する反対論も、アウグスティヌスが前に述べたところです。土でできたものは水より重いが、しかし、舟は水に浮いているではないか。鳥が空中に飛んでいるのはどうか。そういうことがあり得るのだから、体がエーテル界に昇るということも考えられる。


 第12章~第20章

 第12章以下は、次のような疑問を列挙して、いちいちこれに答えています。

 一、堕胎児は復活するか。
 二、小児の復活体の大きさは、小児の大きさであるか、大人になった時の大きさであるか。
 三、各人の復活体の大きさは、最大の人の大きさであるか、あるいはキリストと同じ大きさであるか。

 四、女子は女子の形で復活するか。
 五、ルカ伝第21章18節の言葉に基づいて、髪の毛もしくは爪はどうなるか。
 六、不具者はどうなるか。

 七、切断された体の部分はどうなるか。
 八、獣に食われたり、火に焼かれたり、水中または空中に分散したりした体の部分。
 九、他の人に食われた人の体の復活について。


 当時の人が問題とした、いろんな子どもの疑問のようなものを数え上げて、そしてこれに答えています。ずいぶんつまらない疑問のように思われますが、問題とされたあらゆることを取り上げて、これを究明しようという、アウグスティヌスの根気のいい、またすべてのことを明らかにしなければ止まない研究心の強さにあきれます。

余談ですが、私なども、一番感じるのは、よくこれを、アウグスティヌスが書いたと思うことです。字を書くのはずいぶん骨で、思うことをこんなに一々丹念に書きつけることにはあきれますが、彼の議論はこうなのです。

 堕胎児は復活するかどうか。アウグスティヌスの答えは、死んだ場所は問わないというものです。とにかく人間として生きていたのであれば、死ねば復活すると考えてよかろう。アウグスティヌスは、これを強く主張していないが、復活すると自分は思う、ということです。

 子どもは子どもの時の大きさに復活するのだろうかと言うと、アウグスティヌスの言うには、それは子どもの時の大きさと思ってもいい。老人ならば、老人で死んだ時の状態。各々の人が死んだ時の体の大きさと考えてもいい。

それは何も否定するわけでないが、しかし、人間の体には、子どもの体にでも発育する力が潜んでいるのだから、その力が発揮されて、十分に発達した状態において復活すると考えても差し支えない。

むしろ自分は、子どもで死んだ者は、人生の盛りの状態において復活すると考えたいと思う。けれどもそれには、敢えて固執しないというのが、アウグスティヌスの意見です。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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