新着順:9/1938 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.156

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月12日(月)06時50分6秒
  通報
  (「第31講」その3)
(「第23章」その3、第22巻)


 憐れみによって云々ということは、ヤコブ書にあります。ヤコブ書§2:13に

 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。 (新共同訳)

とある。人に対して憐れみを施した者は、裁きに打ち勝つのだから、永遠の刑罰を免れる。

 マタイ伝の山上の垂訓にある言葉は、

 わたしたちの負い目を赦してください、
     わたしたちも自分に負い目のある人を
     赦しましたように。   (マタイによる福音書§6:12)

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。   (マタイによる福音書§6:14)

ですから、人の負債を赦し、人の悪事を赦し、施しをなし、人に憐れみを施す。慈善をする者は、どんなことをしても、自分たちは永遠の刑罰を免れることができる。

アウグスティヌスが言っていることは、自分たちの過去の罪(過去の負債)を赦していただく時に、その条件として、他人の罪を自分が赦すから、自分の罪も赦してくださいと言って祈るのであり、将来の罪に対して、神から特許状を得るようなわけではないということです。

これからも自分の悪を継続するが、自分が他の人の罪を赦したように、それを咎めないでくださいなどと、言えるわけではありません。

そんなことが赦されるなら、金持ちは、銅銭十枚を毎日施すことによって、殺人、姦淫その他あらゆる種類の罪について、免罪をもらうことができるというような、馬鹿げた結論になるじゃないかと、アウグスティヌスは言っています。

ルターの宗教改革の時に、ローマ法王庁は、免罪符を売り出して、それを十銭で買えば自分の魂も救われるし、死んで行った人の魂も救うことができると言った。それを連想すると、とても面白いですね。

 いろいろ論旨が沢山あって、アウグスティヌスが言っていること自体が、混雑していますが、その要点は先ほど言ったように、永遠の刑罰を否定する考えは、愛に基づいた人情論であるし、また聖書にその根拠を求めるものであるが、しかし人情よりももっと大切なことがある。

それは、神の権威を認めることである。アウグスティヌスの主張の根本は、私たちは賛成できるように思います。個々の点については、不明な点もあるし、賛成できかねることもありますが。



     第22巻

 第22巻は、最後の巻ですが、神の国の終局と、聖徒の永遠の浄福という問題を取り扱っています。

 第1章~第3章

 第1章から第3章までは、神の国における聖徒の永遠の浄福は、神の永遠不変な意志によるのであるから、その約束は必ず成就すべきであると言っています。

 神の都の永遠の幸福は、アウグスティヌスが言うには、単に長く続くことではないのであって、その永遠は常磐木が絶えず新しい葉を出して、永遠に青いという意味の永遠ではない。神の国に属する各個人が、不死の状態に到達することである。

神の意志は永遠不変である。神の意志が変わったように見えるのは、神の意志が変わったのではなくて、人間の方が変わったのである。これは前にこういう議論があったと思います。

例えば、憐れみの神が怒りを発されたと書いてある。そうすれば、神の意志が変わったように見える。あるいは神は、例えば人間を造られたことを後悔したと書いてある(創世記§6:7)。

それは、神の意志が変わったように見えるが、実は神の意志が変わったのではない。変わったのは人間であった。今まで愛されていたと思っていた人が、今度は神に叱られたように思ったのである。

人間の方の心持が変わって、人間の状態が変わったから、神の意志が前には憐れみであったのが、今度は怒りになったように思われる。これは前にもそういう議論がありましたが、面白い考え方ですね。

人間の状態が変わったから、神の方は同じでも、同じ神が恐くなったり優しくなったりする。神はいつも変わらない。こちらに気が咎めることがあると、神が同じ顔をしていても、何だか恐い顔をしているように思えるというのです。

 さらにこれに関連してアウグスティヌスは、神の意志と人の意志の関連を述べて、こういうことを言っています。

神の意志が人に映じる、あるいは人に宿るときに、それが人の方から考えて、神の意志であるということは確実であるが、いつそれが果されるか、いつ成就するか分からない時に、神が欲される時に、かくかくのことが起こるだろうと人が言うのである。

神においては、神の意志は永遠不変であって、その時になって初めて神の意志ができるわけではないが、人間の方が理解できないから、神が欲される時にこうなると言う。

あるいは神の意志であるかどうかが人に分からないときに、神が欲されるならば、こうなるであろうと言う。神が欲するならばということは、神の意志は永遠不変であって、常に欲しておられる。人がそれを理解できないために、そういう条件付きにして言うのである。ということを述べています。

私たちが汽車に乗って、汽車の窓から外を見ていると、汽車が走っていないで、電信柱が走っているように見える。それから何でもそうです。

地動説・天動説、そういう説をする人が、地球が太陽の周りを回るとか、太陽が地球の周りを回るとか言う。どちらが本当であるかというと、どちらも本当です。地球を中心として考えれば、太陽が地球の周りを回っていると言ってもいいのだそうです。

しかし、神と人間との関係では、それは応用できない。つまり神が永遠不変であって、人間が変わっていると言ってもいいし、人が永遠不変であって神が変わっていると言っていいかと言うと、それは言えない。

神の意志は永遠不変である。そういう永遠不変の意志が約束されたのであるから、神の国は成就され、聖徒が永遠の幸福を受けるのです。


(以下次回に続く)
 
》記事一覧表示

新着順:9/1938 《前のページ | 次のページ》
/1938