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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.153

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 7日(水)07時54分14秒
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  (「第30講」その6)
(「第2章~第10章」その2)


 もっと不思議なことがある。これは、自分が見たわけではないが、自分の友人の司教の話によると、その司教がアフリカのある貴族と会食したとき、その貴族が銀の皿の下に磁石を置いて、銀の皿の上に鉄を置いた。すると、下にある磁石が、銀の皿を通して、鉄を吸いつける。不思議だ。その司教は、嘘を言う人ではない。そんなことがある。

ところが、ダイヤモンドを傍に持っていくと、磁石は鉄を引きつける力がなくなる。鉄を引きつけていても、ダイヤモンドを傍に持っていくと、鉄が磁石から離れる。これは本から読んだのだ。そんなことがあるかね。それはありませんね。

 それから、ある泉があって、昼は泉が冷たく、夜は熱くなる。昼は温度が上がって、夜は温度が下がるのが普通だが、その逆です。

 それから、松明に火をつけて泉の中に入れると消える。ところが、消えた松明を持っていくと、火が付く。これはガスだね。天然ガスに違いないのだ。

どうして私がそれを知っているかと言うとね、ラジオで「私はガスであります」を偶然聞いていた。初めて天然ガスを発見した人の話をね。どうもアウグスティヌスの言っていることは、それじゃないかと思うのです。

 ダイヤモンドは非常に堅くて、何を使っても印をつけることはできないが、山羊の血で書くことができるということを本で読んだ。

 そういうことを沢山書いてあり、中には信じ難いこともあるが、自分が実際目撃したことも、確かな人から聞いたことも書いてあります。そして、一カ所だけでなく、あちらでもこちらでも、実に不思議なことがある、と言っている。

 そして、最後の審判で、火の中に体が放り込まれても、体が消えないことはあり得ないと言うなら、諸君は上に述べたような不思議な事実を説明してくれと言うわけです。

それを説明できないならば、神がなされる奇跡だって、―――アウグスティヌスが言うには―――理性では説明できなくても、信じられないことはないじゃないかという議論をしているのです。

 ところが、いろんな不思議な事の中には、人間が工夫したものがある。また悪鬼が魔術によって行う、不思議な業がある。人間の工夫という話の中で、アウグスティヌスは実に面白い事を言っています。

 アテネのヴィーナスの宮では、野ざらしになっている灯火で、いくら風が吹いても消えないものがある。これは実に不思議だと言っている。アウグスティヌスは、それはアスベストスという石を入れ、それに火をつけて、いつまで経っても消えないように細工をしているのかも知れないと言っています。

 偶像の宮―――これはアウグスティヌスの空想―――の屋根の上に磁石を置き、床下に磁石を置けば、鉄で造った偶像は、中間に停止する。そういうことをしてみたら、人は驚くだろう。この偶像はもったいないなどと、人は言うだろう。

人間の工夫によっても、そういうことができる。悪魔だっていろんな悪魔の工夫によって、魔術を行う。人間でも悪魔でもそういうことができるのであるならば、なおさら神は、しようと思えばできないことはない。

人の体は、アダムが罪を犯す以前には、今の体と構造が違っていた。人が死んで後に復活した体に特別の性質を神が与え、そして火の中に入れても焼けないようにするということは、必ずしも信じられないことではないだろうと、アウグスティヌスは言うのです。

 聖書に書いてあることだけに限らず、この世の世俗的な本の中に書かれていることを引用している。

例の歴史家のヴァロのある本に、ヴィーナス、すなわち金星に変化があって、色も大きさも形も変ったと記載されている。星さえそういう変化があるのだから、人間の従来の経験と異なることを、神が自然界に起こすことは、少しも理解し得ないことではないはないか。

そういうふうにアウグスティヌスは議論をして、最後の審判の時に、悪人が永遠に消えない火の中に放り込まれて、そこで永遠に苦痛を受けることは、信じることができることであると言っています。



 第11章~第16章

 刑罰が永遠であることについて、短いこの世の生涯で犯した罪に対して、永遠の刑罰を与えるのは、正しくない、罰の期間が罪の期間よりも長くなるという非難がある。その非難に対して、アウグスティヌスは次のように弁護する。

同じことは、地上の生涯の刑罰においてもあるではないか。人類の始祖の罪が大きいものであることを思えば、刑罰が永遠なことは、怪しむに足りない。

自分の中にある永遠の善となり得るはずのものを破壊した者は、永遠の罰に値すべきものとなったのである。プラトン派は、すべての罰は、この世におけるものも、死後におけるものも、練り清める目的をもつものとした。

アウグスティヌスも、この世および死後における一時的刑罰のあるものには、その練り清める性質があることを認めるが、それらはすべて最後の永遠の刑罰の前にあるのである。(すなわち結局最後の審判が来るのである。)

 括弧の中は私の説明ですが、そういう意味だろうと思うのです。説明しておきます。

 刑罰が永遠であることについて非難する者があって、どんなに罪を犯したって、この世の生涯は短いものであるのに、それに対して永遠の刑罰を受けるなどというのは、無理な話ではないか、と言う。

アウグスティヌスは、それに対して次のように言う。そんなことは、この世にだってある。ちょっとかっぱらいをしたという場合、ほんの数分間の罪に対して、三年も懲役に行ったりすることはあるじゃないか。そんなことは、ちっとも不思議じゃない。

ことに人類の罪というのが、どんなに大きな罪を犯したかを考えれば、永遠の刑罰は、不思議ではないというのです。

 あるいはまた、プラトン派の者は、刑罰というのは教育的な目的をもつのであって、刑罰によって教育を与え、不純を除くという意味があるのだと言っている。アウグスティヌスは、刑罰にそういう意味があることを承認する。

この世においても、あるいは死んだ後の裁きにも、教育という目的があることを承認するが、しかし、だからと言って、刑罰をすべて一時的なものとして、永遠の刑罰を否定することは、間違っていると言う。

永遠の刑罰は必ず来るのであって、その最後の裁きの来る前に、今いったような意味の一時的な裁きというのはあるのだが、どうしても人間というものは、最後の審判に当面しなければならない。

 その最後の審判を免れるには、キリストを信じるより他はない。だからこの人生そのものが、一種の罰と言ってもいいくらいに、苦しみと悲しみの多い世の中で、どんな赤ん坊でも涙と共にこの人生を始めた。

笑いつつ人生に出てくる赤ん坊というのは、まずない。泣いて生まれてくるということは、今後の彼の一生の運命を表現しているものである。

笑って生まれてきたというのは、たった一人である。ゾロアスターというペルシャの宗教を作った人ですね。アウグスティヌス曰くだ。ゾロアスターは笑って生まれてきたそうだが、しかし彼でも幸福ではなかった。笑って生まれてきたことは、当てにならない。

ゾロアスターは、魔術教であるゾロアスター教を作ったが、ついに殺された。人生というものは、涙の谷という言葉は使っていませんが、不幸なところである。そこに生まれた者は、いろいろな害悪を受けるだけでなしに、ある場合は、悪霊の攻撃さえ受ける。

永遠の刑罰を免れようと真実に思えば、キリストによって義とされ、本当に悪魔からキリストに移ることが必要である。最後に、

 自分の青年時代を、放埓な、もしくは粗暴な行為によって、または不義不敬な生活に沈むことによって、呪うべき生活をすることのない人は、数多くない。

たいていの人は、律法の教えを受け入れておきながら、まず悪の力に打ち負かされて、違反者となり、それから初めて恵みの助けへと向くのである。

この恵みによって、激しい悔改めと厳しい戦いの後に、やっと神に従うものとされ、肉に対する霊の戦いに勝利を得るのである。

 この世において、永遠の刑罰を免れようとする者は、キリストによって義とされ、真実に悪鬼よりキリストに移ることを要する。

そして、この恐るべき裁き以外に、何らかの煉獄的な苦痛があると思ってはならない。結局、最後の恐るべき裁きの前に立たなければならない。

 これは、アウグスティヌスが「告白」に述べている経験を思い合わせてみると、アウグスティヌスの言っていることの意味が、よく分かります。

永遠の刑罰を伴う、最後の審判はどうしても来るのだから、それに出会うことができるように、人生を歩んでいる間に準備しなければならないと、アウグスティヌスが言っているのです。

 言い忘れたが、磁石とかダイヤモンドとか、不思議なことは「インドから来た石」だと書いてあります。インドではそんなものはざらにあり、ちっとも不思議ではないのだが、私たちは、初めて見た時には不思議に思う。しかし、だんだん慣れてくると、不思議ではなくなる。

そのように、奇跡、つまり知らないことは不思議だが、知れば不思議に思わないと言っています。

 今日はそこまで。


(「第30講」完)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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