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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.150

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 2日(金)07時47分11秒
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  (「第30講」その3)

第25章~第28章

 神から離れた民は憐れむべき者である―――真の幸福をもっていない―――が、しかしながら地上の民は、それ自身の平和を有している。この平和は軽んじるべきではない。私たちもこの世にある限り、この平和を受けることは、私たちの益である。

使徒パウロも、私たちが平静な生活をなし得るように、上に立って権を取る者、治める人に従うべきことを勧めている(ロマ§13:1)。

しかし、私たち神の都の民にだけある平和は、今日は信仰においてこれをもち、後永遠に享有するのに反し、今日すべての人に共通―――神の都と地の都の両方に共通―――な、地上生活の平和は、積極的な幸福を楽しむというよりも、むしろ不幸の慰安であるに過ぎず、私たちの義も、この世にあっては徳の完成よりも、むしろ罪の除去にある。

最後の審判によって、善人は至高善に、悪人は至高悪に至るのである。

 これが第19巻の議論です。現在の地上生活においては、神の都と地の都とは、混合して生活しているのです。

その混合して生活しているこの世の地上の状態において、神の都の民の幸福は、いかなる点にあるかというと、第一は、地の都の平和に与る。これは地の都の平和だから、役に立たないということは言えない。

静かな生活をするために、地の都の平和に与るようにしなければならない。しかし、神の都の民に固有な幸福、すなわち地の都の者と共同にしない神の都の民だけの幸福は、この世においては、完全にこれを得ることはできない。

ただこの世においては、信仰によってこれを受けるだけである。後来世に至って、初めて完全に実現する。この世において幸福はむしろ消極的なものであって、不幸の慰めとか、罪の除去であるとか、幸福の消極的方面に止まる。

地の国の平和に均霑(きんてん:各人が平等に利益を得ること)するとか、あるいは不幸の慰安、罪の除去といった、消極的あるいは寄寓者的な幸福の受け方に過ぎない。

真に自分が主人となり、また積極的に正義の徳を完成し、幸福であり得るのは来世であり、死んで初めて実現する。

この世においては、信仰によってこれを受ける。最後の審判によって、神の都の民は、至高の善に到達する。神を信じない者は、至高の悪に到達するのである。この世にいる限りにおいては、どちらも相対的である。

地上においては、神の都の民の幸福も、今言ったような意味で消極的であって、地上の平和に与るといった意味しかもたない。地の都の民の不幸も相対的であって、地の都にいる限りにおいては、彼らは彼らなりの平和をもっている。

神の都の民が幸福であって、地の都の民が不幸であるということが、相対的でなしに絶対的な意味で、混同しようのない状態で現れるのは、最後の審判に至ってである。

それまでは誰が幸福であるか、誰が不幸であるか、誰が正しいか、誰が正しくないかは、ちょっと見て分からない。信仰によらなければ分からない。状態は混合しているのであるという考えです。



     第20巻

 第20巻は、最後の審判について書かれています。

 第1章~第2章

 裁きは歴史の初めからある。最後の審判と言うが、最後に至って初めて裁きがあるわけではない。しかし現世にあっては、悪人が生を楽しみ、善人が苦痛を受けることがある。

悪人がこの世を楽しむのは、来世において罰を受けるためである。善人がこの世で苦しむのは、来世の祝福を受けるためである。

しかし、この世で悪人が苦痛を受け、善人が楽しみを受けることもあるから、神の裁きはいっそう測り難い。

要するに善人悪人の区別なく起こり得る事柄に心を用いることなく―――心配することなく―――最後の審判の日において、善人にだけ与えられる幸福と、悪人にだけ与えられる刑罰とについてだけ、心を用いるべきである。

かつ最後の審判の日には、現世における神の裁きの意味も、ことごとく明らかにされることが、悟られるであろう。

 こういう思想は、前にたびたびありました。最後の審判と言うが、裁きは最後になって初めてあるわけではない。そもそもアダムとイブが神に背いたときから、裁きは既にあった。

それから後、引き続き絶えず裁きは行われているのであるが、しかし、この世における裁きは、なかなか人間の理性によっては、悟り難い点がある。悪人がこの人生を楽しんで、善人が人生を苦しんでいる例が非常に多い。

けれどもそれがいつまでもそういうものであるとすれば、それにはまた考え方がある。悪人がこの世において楽しむのは、最後の審判において罰せられて、来世において苦しむようになるためである。

善人がこの世において苦しむのは、それによって神を信じて、来世の幸福を得るためである。

この世と来世とが逆さまになるのであると言うのであれば、それはこの世において悪人が楽しみ、善人が苦しむということも理解できる。しかし、この世においては、悪人が苦しみ、善人が楽しむこともある。

 そうなってみると測り難い。神の裁きには理解し難い点がある。しかし要するに人生における善も悪も、それは正しい人にも正しくない人にも、一様に起こってくると考えなければならないのだから、そういう事柄について、深く心を労する必要はない。

最後の審判において、善人だけが得る幸福を求め、悪人だけが受ける刑罰を逃れるように、今から心を用いなければならない。今は信仰によってそれを知るのであるが、後にはそれを目で見ることができる。

またこの世において神の裁きの不可解な点は、最後の審判になれば、すべての意味が分かるだろう。

アウグスティヌスの言っていることは正しいですね。私たちはそれを覚えておかなければなりません。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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