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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.149

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 1日(木)07時47分46秒
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  (「第30講」その2)
(「第20章」その2)



 これに付け加えて、神は人を支配し、霊魂は肉体を、理性は欲情その他の方面の劣った部分を支配するではないかと、キケロが言った。真にある者にとって、服従は有用である。

ことに神に仕えることは、すべての者に有用である。だから、人が神に仕えないところには、正義はない。この点から言っても、ローマは真の共和国―――真の国―――であると言うことはできない。

 人民―――国民と言ってもいい―――の定義について、もう一つの説を挙げよう。いわく、人民とは、理性的存在が、その愛の対象についての共通の認識によって結合された集団であるという説である。

これに従えば、人民の特性を知るためには、それが愛するものが何であるかを見ればよろしい。右の定義によれば、ローマ人は人民であり、その社会は国であるが、真の神の戒めに従わない国は、どのような国でも真の正義をもつと言うことはできない。

 アウグスティヌスは、この問題、すなわち国民の本質、性質および正義の性質という問題についてはこれ以上論じていません。自分の説を積極的に述べるというよりも、人の説を引いて、簡単に批評しているに過ぎないのです。

この権利についての学説は、古来二通りある。一つは唯物論的に考えて、強者が弱者を支配する利益、これが権利の内容である。権利というものは、それから起こってきたものである。

元来は暴力的な力であったが、これを秩序化したものが、権利という名で呼ばれるようになったのだという説明をする説があります。アウグスティヌスは、その説明には賛成していません。

 正義が権利の内容であるという説に、賛成しているのです。ですから権利を認めることは、正義の支配を承認することに他ならないのです。

 ところで、その権利義務の関係がなければ国家はできないが、その治める者の権利、治められる者の義務を共同に承認しなければ、国にならないのですが、その権利の内容は何であるかと言うと、正義である。権利義務の内容は正義である。

正義がなければ権利もなく、権利がなければ国もない。権利がなければ、人民もないのです。権利によって組織立てられない人々の集団を、国民もしくは人民と呼ぶことはできない。烏合の衆です。

それでは正義とは何であるか。各々の者がその分を尽くすことが正義である。そうしてみると、アウグスティヌスの議論がずっと飛んで、真の神には真の神が受けるべき分を与え、悪鬼には悪鬼の受けるべき分を与える。それこそ正義の根本であるではないか。

ところがローマ人は、真の神を拝まず、悪鬼を拝んでいる。偶像を拝んでいる。礼拝を受けるべきものは真の神であるのに、真の神を礼拝しないで、真の神に与えるべき礼拝を悪鬼に与えているのだから、正義が根本から蹂躙されている。

そういうローマ人の社会であるから、その社会は、正義に立脚していないのが当然である。だからこれは、本当の国と名づけるべきものではない。国という名に値しないという意見です。


 第二の点は、服従という問題です。キケロは「共和国論」という本で、ローマが属領を支配していることは、正義に適っているか否かを問題にして、それが正義に適っていることを主張している。

その根拠として、服従は属領民にとっても有利である。なぜなら、彼らはこれによっていろんな権利を受ける。十分発達していない者が発達している国の正当な一員として教育されるのだから、服従は彼らにとって有用である。初めから自由で勝手放題なことをさせておくと、反ってよくないとキケロが言っている。

肉は霊魂に従い、霊魂は理性に従い、理性は神に従うという風に、従うべき者に従うのが良いのであると、キケロが言っている。


 これに対してアウグスティヌスが言うのには、それはそうだ、服従はある場合において、有用であることが多い。例えば子どもは、親の権威の下にあって、服従しなければならない。

あるいは未開の地方の人々には服従そのものが、害悪であると言うことはできない。

しかし、服従関係の根本は、神に仕えるということでなければならない。そこで下の者が上の者に服従することは有用であるが、しかし、その支配する者自身が神に仕えていないところには、正義はあり得ない。そういう意味から言っても、ローマは真の国とは言えない。

ローマが地方(プロヴィンス)を支配している。プロヴィンスがそれに服従することは有意義であるとしても、ローマ自身が神に仕えていないのだから、ローマの支配は正義であるとは言えない。

 そこに述べられていた人民の定義によると、人民というのは、人民の愛するものを共通にして結合されている集団である。

この定義に従えば、ローマの人民も一つの人民であるが、しかし、何を愛するかというと、真の神を愛しているのではないから、これも本当の正義に基づいた国とは言えない。

大体彼の趣旨は分かるでしょう。真の国は真の神を愛し、真の神に与えるべきものを与え、真の神の戒めに服従する。そこにおいてだけ真の正義があり、真の正義があるところに初めて真の国があると言うのです。

だからキリストが、「神のものは神に返し、カイゼルのものはカイゼルに返せ」(マタイ§22:21、マルコ§12:17、ルカ§20:25)と言われた諺がありますが、帝国時代のローマで言えば、カイゼルが人民を集団として結合する中心、すなわち愛の対象です。

カイゼルを中心として結合している集団であるから、ローマは国民をなしている。しかし、それが真に国であるためには、カイゼルにカイゼルのものを返すだけでなく、神のものは神に返さなければならない。

そこにおいて、初めて正義がある。各々にその受けるべき分を与える。真の神を拝せず、真の神を愛の対象としていなければ、いくらカイゼルを中心として結合されても―――この世の意味においては国であり得ても―――、真に正義の国ということは、できないのです。

アウグスティヌスの意見を私たちが言い換え、敷衍して言ってみれば、そういう意味でしょう。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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