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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.148

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月31日(水)08時23分39秒
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     第30講 第19巻 第18章~第19章・第20巻・第21巻 第1章~第16章
                           1941年3月1日

 今日は第18章からです。書いてください。

 第18章

 懐疑派―――前にあった新アカデミー派―――の議論では、神の都を虚偽として排斥する。何でも疑うべきであって、確実なものは少しもないという考えは、これを排斥する。

神の都の者は、霊魂と理性とによって悟られる事柄を、最も絶対的に確実であるとする。ただし、朽ちるべき肉体が、魂を圧迫することにより、その知識は限られたものである。

神の都に属する者はまた、霊魂が肉体の助けによって用いる、感覚の証明を信じる。感覚は、欺かれることはあるが、感覚を信じないという者の方が、いっそうひどく欺かれる。

それはまた、新旧約聖書を信じる。その中に、正しく生きるべき信仰の源があり、それによって私たちの体が、主(神)を離れている間、疑いなしに歩むことができるのである。

この信仰が堅く立つ限り、上に述べた三点に属しない事物について疑いをもつことは、差し支えない。

 それが、第18章の大意です。疑うことのできないものが、三つある。一つは霊魂と理性によって悟り得る事柄、その二は、感覚によって知り得ること、第三は、聖書に書いてあること、それ以外の事は、疑ってもいいという意味です。

 これは、前々から何度もあったが、神の存在と理性の働きとを信じるならば、それ以外のことは、何を疑っても迷うことはないと言うのです。前にあったから、それ以上説明しないでも良いでしょう。



 第19章

 神の都は、神の戒めに一致して生活する限り、服装および生活様式を限定しない―――これはずっと前にあった、犬儒派、キニケのような、簡素な生活をしなければならないという意味ですね―――。

哲学者がキリスト者になる時、彼らはその誤った学説を捨てなければならないが、服装や生活様式を捨てるには及ばない。これらは、信仰に何ら妨げにならない。

瞑想的、活動的、複合的な生活についても、どれが一番良いかについても、真理と義務の要求を無視しない限り、いずれでも差し支えない。清い余暇は、真理の愛のために願わしいものである。しかし、必要な事務をとることも、愛の必然である。

もし誰一人としてこの重荷を私たちに課する者がなければ、私たちは自由に真理を思索し得る。しかしもし、その重荷が課せられたなら、私たちは愛のためにそれに従事する必要がある。

けれどもこの場合においてさえも、私たちは思索の楽しさを、全然捨て去るべきではない。これがない時は、その重荷は、私たちにとって耐え難いものとなるであろう。

 説明しておきます。初めにあった服装や生活様式の問題はどうでもいい。信仰の本質問題でないから、こういう服装をしなければならないということは、間違っている。服装や生活様式の問題は、何でもない問題ですが、ずいぶんおかしな事が、行われるのですね。

 その次の瞑想生活―――静かな生活―――が良いか、活動的生活が良いか、両者を混合するかというと、これも信仰問題としてはどうでもいい。

ただ、後に述べたことはアウグスティヌス自身の体験であって、彼は教会の監督をしたのですが、その当時の監督の仕事は、今の教会の監督よりも、もっと忙しい。

説教とか、葬式の他に、いろんな身の上相談や、教会の裁判などもしなければならなかった。非常に忙しくて、アウグスティヌスは勉強する暇がなくて、大変困ったのです。

そのことと思い合わせてここに書いてあることを読むと、アウグスティヌスの気持ちを私たちは察することができます。



 第20章

 神の国の至高善は、すべての悪から完全に自由な、永遠の平和である。したがって来世が最も幸福なものであるが、来世を熱心に愛しかつ望みつつ、その来世に関連させてこの世を用いるならば、その人は現世においてさえ、幸福と呼ばれる。

 しかし、来世の希望なしに現世の幸福をもつことは、虚偽の幸福、深い不幸に他ならない。

 現世と来世との関係です。



 第21章~第24章

 正義について。

 哲学者キケロの ”De Republica”「共和国論」の中で、スキピオ―――その中に出て来る人物―――は、国―――Republicaのことです。Republicaのことを共和国と言うが、今日の共和国とか王国と言うよりも、一般に国、この世の国のことを言う語です―――は、人民の福祉であると定義したが、この定義に従えば、かつてローマ国は存在したことはない。

なぜなら、人民の福祉が、ローマ人の間で獲得されたことはないからである(第2巻第21章参照)。

 キケロのこの本は、スキピオが出てきて、国家の問題について問答するような形に書いているが、前に筆記してあります。第2巻第21章にキケロの本のことが述べてあり、国の問題については、アウグスティヌスがそこで、また後に機会が来た時に、再び論じると言っているのです。それを、今論じているのです。

 スキピオの定義によれば、人民とは、権利の共同承認および利害関係の共同によって、結合された集団である。そして権利の共同承認とは、国は正義によらなければ、治められないという原則を意味する。

それゆえ、真の正義がない時には、権利はあり得ない。権利は強者に有用な手段であると解する説は誤りである。

正義のないところに人民はなく、人民のないところに人民の福祉はなく、そこにあるものは、ただ人民の名に値しない烏合もしくは混合の民衆だけである。

さらに進んで考えると、正義は各々の者に、その受けるべき分を与える徳である。だから人が真の神を捨てて、悪鬼に身を委ねるとき、どこに人の正義があるか。

キケロは正義を強く弁護し、ローマが地方―――英語の provinceで、今日の言葉で言うと、本国に対して属領とでもいうほどの意味―――を支配するのは不正義ではないか、という問題に対し、正しく治められるなら、服従は地方民―――属領の者―――にとって利益があるとした。

 ローマの市民権をもっている者は、地方の人間とは権利も違っていました。後にローマは政治上の政策として、地方民に、ある限られた自由権を与えたが、ローマの本来の市民権と比べると、地方の者の権利は少なかった。そして権利をもたない者は、もちろん全く服従しなければならない。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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