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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.147

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月30日(火)08時24分57秒
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  (「第29講」その4)

 第15章~第16章

 奴隷について

 神はその理性的被造物、すなわち人間が、非理性的動物を支配することを定められたが(創世記§1:26を引用している)、人が人を支配することを命じられたのではない。

原始時代において、義人は家畜の牧者とされたが、人の王とはされなかった。奴隷の状態は、人の自然ではなくて、罪によってもたらされたものである。聖書の先祖たち―――族長―――は奴隷をもち、この世の生活の幸福に関しては、奴隷と自主の子との間に区別を立てたが、永遠の幸福のために神を礼拝することにおいては、家族の全員に対しては、平等な愛をもって見た。

これは、自然の秩序に適ったことであって、真の家長である者は、家族の全員が、その者が子であるか奴隷であるかを問わず、等しく神を拝することを欲し、かつ努力すべきであるが、人が人を治める必要のない天の家庭が来るまでは、奴隷がその服従を義務と感じる以上に、主人はその権威の地位を義務と感じるべきである。

このゆえに、家族のある者が不服従によって家庭の平和を妨げるときは、言葉または鞭打つことによって、これを正す。

 奴隷のところは簡単に言ったが、アウグスティヌスの言う趣旨は、家庭の平和というものは、治める者と服従する者との間の服従にあると言った。

彼が言うには、奴隷の存在は、自然の状態ではない。聖書に奴隷という文字が初めて記されるのは、ノアの洪水の後のことである。

ノアがお酒に酔っぱらった時に、ノアの子どもが失礼なことをした。それに対してノアは、「カナンはセツの奴隷たるべし」と言った(創世記§9:25)。そこで初めて、奴隷という語が言われた。それから見ても、奴隷は罪の結果起こったものであるということが分かります。

 ラテン語の servus という語は、 servare という語から出た。 servare という語は英語でいうと、 preserve という語に当たる。保存するという意味です。

それは、戦争をして捕虜ができると、殺さないで―――戦争の捕虜を殺すことは、戦争法規の許すところであったが―――生命を保存して、これを奴隷として用いた。これが奴隷の起源である。

こういう点から考えても、奴隷というものは、罪の結果であることが分かる。このノアの子どものことと servare をアウグスティヌスは並べて書いており、それ以上に詳しく述べていませんが、奴隷の起源には、いろいろの説がある。

むしろいろんな場合があって、戦争によって敵を奴隷にしたのが多くの場合ですが、そうでなくても、同じ種族の中でも犯罪者を奴隷としたという例がある。

 奴隷の起源は、同種族内の犯罪者、違った種族の戦争で負かした捕虜、この二つが奴隷制度の起源のようです。どちらが多いかと言えば、むしろ戦争の場合の方が、実際は多いようです。アウグスティヌスが挙げているのは、たまたまこの二つに当たるのです。

ノアの子どもで罪を犯した者が奴隷とされたのは、同じ種族内で犯罪者が奴隷とされた例の方です。いずれにしても、奴隷というものは、罪の結果である。

戦争による奴隷の場合、仮に、アウグスティヌスが述べたところですが、その戦争が義戦である、正義のための戦争であると言われても、戦争そのものは罪の結果であるという立場は覆されることはない。

 理想的状態には、人が人を治めるということは、ないのである。けれども今日の現実の社会は、未だ人が人を治める必要がない天の家庭として成立していないのだから、主人たる者の権威、地位が正しく用いられるためには、家族の一員が服従しない時には、罰するということは、止むを得ない。


 最後のところを読んでみます。

 私たちが罪を犯した人に害を加えるだけでは足りない。彼の罪を止め、その罪を罰することをして、この経験によって、益を得させる。あるいは彼の例によって、他人に健康を与えるということをしなければならない。

 だから家族の一員が、服従しなかった時、本人の益にさせるため、また他人に益を与えるため、そして罪を止めるために、これを罰するということをしなければならない。「かつ」こういうことを言っている。

 かつ家族というものは、国すなわち町の初めであり、もしくは構成要素であるから、家の平和は国の平和と関連をもたなければならない。したがって、家長たる者は、その家の支配を、国の法律に準じて、制定しなければならない。

 これは、非常に現実的な言い方であって、家というものは、国を構成する単位であるから、国の法律に従って、家の制度も作らなければならないのだ。

国全体が奴隷制度を認めて、国全体が国全体として、奴隷を打つ、あるいは叱ることを合法的だとしているのだから、家もその国の法律に準じて奴隷を扱わなければならないと言っているのです。

 だからアウグスティヌスの奴隷制度に対する考えは、次のようになります。

奴隷制度は、人間が人間に対して取るべき態度ではない、立てるべき制度ではないから、奴隷制度がないことが望ましいのである。

また主人たる者は、権力によってではなく、義務として奴隷を治めるべきであり、ことに礼拝に対する関係においては、奴隷を自分の子どもと区別せず、一様に扱わなければならないのである。

しかし奴隷を叱るということ、あるいは鞭打つということは、罪を抑制するという点から言っても必要だし、また国の一般社会の法律に準ずる点から言っても、そうしなければならない。


この最後に述べていることは、なかなか面白いですね。家の制度というものは、一般社会の制度と切り離して立てるということは、事実上非常に困難であるし、またそれを強いてするならば、反って社会に対して害を及ぼし、社会の平和を乱すことになる。

奴隷制度もそうで、社会一般に奴隷制度が行われている時に、自分の家庭だけ奴隷を解放することをすれば、よほど弊害を予防する方法を取らないと、奴隷そのものも不幸な目に会うし、また社会全体に、良い影響を及ぼさない。

今日の資本主義社会において、それはよく言われることです。資本主義社会には、賃金労働者がいます。それを自分の工場だけ止めてみる。よほど弊害を予防してやらないと、何者も利益を得ない。自分のところの召使も利益を得ないし、また社会も利益を得ないということになる。

アウグスティヌスが述べていることは簡単ですが、そういうことを言っているのです。



 第17章

 信仰によって生活しない家族は、彼らの平和を、この世の地的便宜の維持に求める。

ところが、信仰によって生きる家族は、この世の地上の便宜を、むしろ魂を圧迫する朽ちるべき肉体の重荷をたやすく耐え、かつその重荷の数を減らすために用いる。

地上の生命に必要な事物は、両種の人および家族によって、等しく用いられるが、その目的を大いに異にする。

この世、この地上の生活は、二つの都―――神の都と地の都―――に共通であるから、世に属する事物については、両者の間に、二つの都の間に、調和がある。

ところが地の都は、人の生活の各部に対し、多くの神々を割り当てるのに反して、天の都の民は、ただ一つの神ありとする。すなわち、二つの都は、宗教については共通の法をもたない。

天の都は、信仰を損なわない限り、地の平和を利用し、生活に必要なものの獲得について、人々の間における共通の一致の維持を欲し、そしてこの地的平和を天の平和に関連させる。

すなわち完全な秩序と調和の天の平和を信仰によって保ちつつ―――未だ現に所有していないから、信仰によって望んでいる状態である―――地上における神と人とのためにする、すべての善い行為を、この天的平和の到達に関連させる。なぜなら、天の都の生活は、社会生活であるからである。


 第5章からそこまでは、非常に長かったのですが、哲学者が言う幸福な生活のためには、孤立した生活がいいか、社会生活がいいかという問題に対して、これは社会生活でなければならないということについての、アウグスティヌスの答弁であるのです。


 最後に言ったところは、地上生活は神の国の人と、この世の人の間に調和があるということです。

一番大きい問題は、経済生活あるいは政治上の生活でしょう。社会生活である限りにおいて、両者に共通点がある。したがってその平和を欲するのだ。

しかし、この世の人は、その生活の中に人生の目的を見出しているし、それから神の都の人は、これを天の都の完全な平和の獲得に関連させて考える。

だから動物ならば肉体の健康および生命維持ということが目的であって、それだけであるが、理性的人間は、肉体の健康と生命維持を霊魂の平和に関連させて、そのために肉体の健康を維持することを考えている。

けれども天の都に属する者は、この霊魂と肉体との生命、つまりこの地上の生命を、終極の問題とは考えないで、これは天の都の平和に到達する階梯として、それに関連させて意味を見出す。

そこに人生の態度の違いがあるが、地上生活においては、地上生活の便宜に関する限り、この世の人々との間に共同一致の生活を維持しなければならないという意味です。

 今日はそこまで。


(「第29講」完)

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