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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.146

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月29日(月)07時52分8秒
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  (「第29講」その3)
(「第13章」その3と「第14章」)


 もし自然が善であると言うならば、鉛筆は善であるか。鉛筆というものは、ある秩序をもっているから、鉛筆が鉛筆の平和の状態にあると言うことは言えますが、鉛筆というものが善であるか。

あるいは、こういう花か書物がある。書物は善であるかというと、私たちが普通に考えている善とは、少し概念が違いますね。私たちは、道徳的に善悪ということを考える。

この花が善であるか悪であるかというときと、私たちが言うような場合の意志の問題としての善悪とは、違って見ています。

 その点は、アウグスティヌスが言っていることは、これだけではあまりに簡単であり、私たちにはよく分からないが、悪魔の自然は善であるが、彼の意志は悪であって、彼の意志によって、自然の秩序が倒錯した。

それが悪であると言っているのであるならば、善悪というものは、意志にあると言わなければなりません。善悪が自然にあるのであるならば、いかに意志によって倒錯しようとも、自然はやはり善である。

アウグスティヌスの立場によると、自然は自然である限り、悪ではない。悪は悪なりに悪の秩序の中にあるというのであるならば、ひっくり返しになっているものでも、それはそれとして善であると言わなければならない。

意志が善悪を決定するのではなく、善悪は自然にあると言うならば、意志は無関係である。

等しく善悪という言葉を用いても、アウグスティヌスの持論のように、自然に存在しているものはすべて善い、善なる神は万物を善に造られたと言うことと、その自然を悪魔もしくは人の意志が倒錯したのであり、意志が神に反逆したことが悪であると言うこととは、等しく善悪と言っても、意味が大いに違う。

あるいは、道徳の世界においては、善悪は意志の問題であると考えなければならないでしょう。

存在そのものが秩序の中にあって、秩序の中にあるものは善であるという考え方と、善悪は意志の問題、すなわち行為の問題であるということは、問題が違う。等しく善悪と言っても、意味合いが違う。意志の問題と言えば、鉛筆などというものは、善悪ではない。

鉛筆なり花なりの存在は、それは秩序の中にあって、秩序の中にあるものは、平和と言おうが、あるいは美と言おうが、それは存在の理由があって存在しているのであって、無意味なものではないという意味において、存在の理由がありますが、意志の問題としての善悪の範囲に入ってこない。

それで、存在の意味というものと、道徳の善悪という問題とは区別して考えた方がよくはないかと、私たちは素人流に考えます

存在はむしろ美の問題であって、善の問題ではない。美は調和にある。善は、意志が意志の根源である神に対する調和にあって、それが善である状態である。意志の根源である神に対して、人間の意志が調和していない、反逆している、それが悪である。

そこまで行けば、同じ根源すなわち神から出るものであるが、事物と事物の自然の秩序は、善悪ではなくて、これは美の問題である。意志と意志との調和の問題、これが善悪の問題である。

だから人間と人間との間の調和も、人間と人間との間の意志の調和が、人間社会の道徳問題としての平和である。人間と神との間もそうである。

 そういうふうに考えたらどうか。そうすると、アウグスティヌスが第13章の最後に言っていることは、私たちが今言ったような説明に近くなっているのであって、空気とか水というものは、善でもなく悪でもない。

これを有用なものとして神が造られ、人間の生活の便宜として与えておられる。存在としては、これは有用なものであるし、美しいものであるし、無益なものではない。けれども空気そのものに、善も悪もあるわけではない。

これは、これを人が善く用いれば善くなるし、悪く用いれば悪くなる。すべての事物がそうであって、人間の肉体もそうです。

肉体も肉体そのものは神が造られた自然であって、他の自然と肉体とが、調和を保っている。また肉体の各部分も、調和を保っています。それによって、肉体は存在の生命をもっている。存在の美をもっている。

肉体そのものは、善でもなく悪でもない。これを意志が善く用いれば善となり、意志が悪く用いれば悪になる。よく用いれば肉体は不死―――永遠の生命―――に入るし、悪く用いれば永遠の刑罰に入る。

肉体的(生物的)の生命そのものは美しいものであり、楽しいものである。生命として造られているものを、意志によって神に対する調和にもたらせるならば、非常な喜びとなる。ところが、神との不調和にもたらされるならば、生命があるということが、不幸になる。すなわち死んでしまう方が幸福だということになる。

生命をもって神に反逆するために、自分たちの生命を使う、またその罰を自分たちの生命が永遠に感じるというのであるならば、生命があるということは、少しもいいことでなくなってしまう。

 これはいろんな問題を含んでいますから、なるべく必要な所を、アウグスティヌスの言葉どおりに翻訳して、筆記していただいたのです。



 第14章

 第14章は分かり易い所であり、大意は既に説明したことですが、便宜上これも書いておきます。

 地上の事物の使用は、地上の社会における知的平和に関連を有する。もし私たちが非理性的な動物であれば、身体各部の調和と情欲の満足、すなわち肉体の慰安と快楽の豊かなことを求め、

この肉体の平和が、魂の平和に貢献し、肉体と霊魂の相互的平和によって、調和ある生命と健康との平和を求めるに過ぎないであろう。

 ところが人は理性をもつから、彼が獣と共通するこれらのことを、彼の理性的霊魂に従わせ、彼の知性の自由な働きによって、自分の行動を規律し、そうして秩序と行動との秩序立てられた調和を楽しむ。これは、私たちの理性的霊魂の平和を言っているものである。

 ところが人は、主たる神に従わなければ、誤謬に陥り易いものであるから、その自然的もしくは霊的もしくは両者の平和を、死ぬべき人が不死の神との間にもつ平和に関連させ、かくして永遠の法に対する秩序ある服従を示すのである。

 ところが、神は神を愛することと、隣人を愛することとの二つの戒めを与えられたのであるから、人は自分と共にあるすべての人々と、秩序ある調和において、平和にいることを欲する。

こうして、家族が最初の注意の対象となる。これは、自然ならびに社会の法が、人に最も接近しやすいものとしたところであるからである。これが、家族的平和すなわち家族内において、治める者と従う者との間における、秩序ある調和の起源である。

けれども、天の都の民である正しい人の家庭においては、治める者さえ、その支配される者に仕える。それは、彼らが権力愛によって治めるのではなく、義務感によって治めるからであり、権威の誇りによってではなく、憐れみを愛して治めるからである。


 説明しておきます。たいてい、説明しないでも分かると思うが、非理性的な動物の生活の目標は、身体の各部の調和ということと、それから肉体的欲望を満足させることによって、生命と健康との平和を維持するというだけのことである。

だから豊かに食物を得て、肉体がこれによって調和を保つならば、動物の霊魂も平和を感じる。そして体と霊魂との間にも調和ができる。体と霊魂の調和ある生命が維持される。

人間も、肉体をもっている限りにおいて、それをする。すなわちお腹が空けば食物を求める。それによって、肉体の身体各部に調和をもたらす。それによって、人間の霊魂も平和を得、心も平和を得、霊魂と肉体の両者を調和状態に入れ、生命と健康を維持する。

けれども、それだけでは終わらない。理性的存在者として、知識をもって自分の行動を規律することをする。知識と行動との調和が、理性的生物(理性的存在者)である人間の平和に必要なものである。

けれども、その知識は不完全なものですから、神との間に調和ができていないと、間違いに陥る。知識も行動も誤りに陥る。完全な調和、すなわち平和を得ることはできません。

それで、神との調和に入ることが、人間の平和を実現するために必要なものであるが、その神との調和の内容は何であるかというと、神を愛することと、隣人を愛することである。

そこで結局神と人間との平和を維持するためには、人間社会の平和を必要とするのである。一番注意を向けられる手近なものは家庭で、それは自然の法によっても、社会の法によっても、一番接近しやすい。

 家族間の平和を求める。ところが、家族間の平和は秩序であるから、治める者と治められる者との間に、秩序関係がある。これが平和の内容である。

しかし、この秩序というものも、天の都において正しいものの秩序というものは、この世の都の秩序と違って、単なる権力に対する服従関係と考えてはいけないということですね。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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