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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.145

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月26日(金)06時46分35秒
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  (「第29講」その2)
(「第13章」その2)


 このゆえに、悪がその中に存在しない、もしくは存在できない自然はあるが、善がその中に存在し得ない自然はない。

悪魔そのものの自然でさえ、それが自然である限り、悪ではない。それは倒錯されたことによって、悪とされるのである。それゆえ彼は真理に止まらないが、真理の裁きを免れない。秩序の平安に止まらないが、秩序を立てられた者の力を免れない。

神が彼―――悪魔―――の自然に賦与された善も、彼を神の裁きから守らず、彼が罰せられることにおいて、秩序は保たれるのである。また神は、神が造られた善を罰するのではなく、悪魔が犯した悪を罰されるのである。

神は悪魔の自然に賦与されたものを、すべて取り戻したのではなく、あるものを取り戻し、あるものを残され、これによって取られたものの損失を感覚するに足りるものが残されるのである。

その苦痛の感覚そのものが、取り去られた善と残された善との証拠である。なぜなら、何も善なるものが残されないなら、失われた善のために苦痛を感じることもないであろう。

罪を犯す者が、もし己の義の喪失を喜ぶならば、それだけいっそう悪い者であるが、苦痛を感じる者は、少なくとも健康の喪失を悲しむのである。そして、義と健康とは、共に善いものであり、そして善いものの喪失は悲しむべきことであって、喜ぶべきことではない。

だから善なるものを捨てた罪人の喜びが、悪い意志の証拠であるように、彼が罰されるときにおける、その失われる善に対する彼の悲しみは、善い自然の証拠である。

なぜなら、自己の自然の失われた平和を悲しむのは、彼の自然の中の平和に対して、親しみある―――親密を感じる―――ある平和の残り物があることによって、これを悲しむのである。


 説明しておきます。

 前段においては、平和という問題を述べたのですが、途中から善悪という問題に論点を移してきている。平和は秩序の中における調和であるという議論をしてきていたが、事物自然の秩序は、事物の自然であると言った。

今度は、事物自然の秩序なるものは善である。これに反することが悪であるというふうに、論点が移ってきたのである。

 そうしてみると、アウグスティヌスの考えによると、いやしくも自然を備えているものは、その限りにおいて善である。秩序なしには自然はないのであるし、その秩序は平和であって、平和は善である。ゆえに自然は自然である限りにおいて善である。

 最も極端な例を取って、悪魔というものをアウグスティヌスが出した。悪魔も自然である。悪魔も一つの理性的な存在として神に造られた。

ところで、天の使いが堕落したのが悪魔であるから、その堕落したのは、悪魔の意志によって逆立ちした―――倒錯した―――のであって、それが悪魔である。

しかし、逆立ちしたとはいえ、自然である限りにおいては、悪魔にも善が残っているのだ。悪魔にも平和の遺物があるのだ。悪魔にでも悪人にでもあるのだ。それがなければ、苦痛を感じることはない。

悪魔が最後の審判を受けて苦痛を感じる。なぜ苦痛を感じるかといえば、善が中に、健康もしくは義に対して親しむという、何かそういう自然が残っていればこそ、その義の喪失もしくは平和の喪失を苦痛に感じるのです。

苦痛というものは、自分がもっている善が失われることがすなわち苦痛だが、それを苦痛と感じるのは、自分に善があるからだ。

肉体の病気は、なぜ苦痛に感じるのか。健康が害されているから苦痛に感じるのであるが、なぜ苦痛を感じるのであるか。健康が残っているから苦痛を感じるのです。全く死んでしまえば、苦痛をも感じない。

悪魔がそうであって、悪魔の自然の中に善の喪失を苦痛と感じるだけの善も残っていないとすれば、悪魔がどれほど刑罰を受けても、苦痛を感じない。苦痛を感じなければ、刑罰にならない。永遠の刑罰の意味がない。

聖書には、永遠の刑罰のことが述べられています。悪魔が永遠に苦しむということは、苦しむだけの自然が残っているからだというのが、アウグスティヌスの議論です。

中国の哲学では、荀子は性悪説、孟子は性善説を唱えました。アウグスティヌスは性善説を取っている。性すなわち生れつきの自然は善であるという意見です。

 途中を略しますが、第13章の筆記をもう少ししておきます。

 すべて自然万物の最も賢明な創造者であって、最も正しい規律者である神は、人類を地の最大の装飾として置かれたのであり、地上の生活に適する善いもの、すなわち一時的平和――― 一時的というのは、永遠に相対した、この世の平和―――を、人に賦与された。

例えば私たちがこの生涯において、健康、安全、交友ならびにこの平和の維持と回復に必要なすべての事物、すなわち私たちの外的快楽に役立つべきもの、光を始めとして、空気、水、ならびに身体を支え守り、癒し、もしくは美しくするために要するあらゆるものを人に与えられた。

そして、この世の状態の平和に適したこれらのすべての便宜を善く用いる人は、より豊かで、かつより善い祝福、すなわち永遠不死の平和を受けるであろう。これに反し、現世の平和を悪用する者は、それを失うだけでなく、永遠の浄福をも受けないであろう。


 説明しておきます。

 最後の一段は、この地上生活において享有する諸種の便宜についての考えであって、先ほどから言っているように、アウグスティヌスは自然を善なるものと考え、

その自然の中でも人間は地上における存在の中では、最も優れたものとして、神が造られたのであって、この地上において、平和な生涯を送るために必要なものを、人に与えておられる。これは、すべて善なるものである。

ところで、これら善なるものを善く用いる人は、この世の生活よりもさらに善い生活、すなわち来世における永遠の平和を得るが、与えられている善なる自然を悪用するものは、それを失うだけでなく、また永遠の幸福を受けない。

 これについて、私たちは深く論じている暇もないし、また論じるだけの能力もありません。

しかし、アウグスティヌスは、平和ということで、人間社会の平和を論じることが彼の主眼であったのですが、単に人間社会の平和ということに限定しないで、それを下っては物体の平和、上っては神と人との平和というところまで考え、一面的に平和という問題を解決しようとした。これは、先ほど言ったように、プラトン学派の影響です。

 そうしてみると、物体例えば鉛筆というものに平和がある。鉛筆は、与えられている各部分―――鉛筆の芯と木との部分―――に調和を保って秩序の中に置かれているから、鉛筆は調和の状態にあるというふうなこと。

人と人の間の関係でも、人と人は秩序立てられた調和の中にある。それが社会の平和である。神と人との間の平和もそうだというふうに、秩序における調和の中に平和を見た。

 その問題は、今まで述べてきたところで、ほぼアウグスティヌスの立場は分かりますが、これをさらに一歩進んで、事物自然の秩序を反面から言うと、存在している自然は、すべて秩序の中に存在している。

秩序がなければ存在がないということから善悪という問題に転じてきますと、アウグスティヌスが言っている意味での善というのは何であるか、悪というのは何であるかということが、問題になってきましょう。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 
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