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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.164

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月22日(木)07時50分53秒
  (「第32講」その5)



 8、本来自然は、善に造られたものであるが―――それは神が万物を造られた時に、見て善いとされた―――人の悪の結果、自然万物も、滅亡に定められた。(ロマ書§8:19~22)

 これは、私たちがよく知っているところですね。すべて亡びに定められた者は、亡びの様から救われることを待ち望んでいる(ロマ書§8:21)。自然はこの世にあって、人の惨めさに、自然そのものがいわば感染しているのです。

例えて言えば、結核患者を憐れんで看病する人が、自分も結核に感染しているようなもので、自然と意志とは、同病相憐れんで、等しくこの惨めな状態からの解放を待つ。

アウグスティヌスは、自然をあるがままに善と見たから、その自然観は、あるいはその宇宙観は、至って明朗であるが、他面パウロの深刻さを欠く嫌いがあるのではなかろうか。

 アウグスティヌスの自然観が、非常に明朗であるということは、今日筆記したところでもよく分かりますが、前回の第22章のこの世の惨めさ―――人間のいろいろの不幸―――は、戦争とか危険とか、人間に関したこと、それから思いがけない災難ということは書いてありますが、

自然が悩んでいる、自然が完成をまっている、すなわち自然そのものが、美しい、新しい自然となることを嘆き求めているというふうには、アウグスティヌスは見ていない。

パウロがロマ書で言っているようなことは、アウグスティヌスの自然観には入ってこない。

 これが、どこから来ているのかは、もちろん私たちの想像でしかありませんが、一つにはプラトン学派の影響でありましょう。と言うと少し語弊もありますが。

なぜなら、プラトン学派においては、ことに新プラトン学派では、肉体を軽蔑したのですから、アウグスティヌスの自然観がそこから来たと言えば言い過ぎでしょうが、概してギリシャ哲学は、明朗であって、罪についての深刻な自覚がない。

その哲学的影響と、もう一つはアウグスティヌスがアフリカの人であって、至って自然の豊かな、光の豊富な所にいたという郷土的な影響もあるだろうと思います。

ルターのような、陰鬱な北欧の地にいた人とは、自然を見るについても、自ずから観察が多少は違ったろうと思う。

それで「自然は善であり美しいものだ。自然を広い意味にとると、人間自身もその中にあるわけです。人間の体も人間の心もすべて神から自然に与えられたものですが、その他の外物も、すべて神によって造られたものであって、神はそれを善く造られた。

人が罪を犯しても、その美しさが残っている。しかし、人が罪を犯した結果、その美しさが傷ついた。傷ついた美しさであって、至る所に傷痕が見える。

それだけでなく、本来善い、美しい自然が、反って悪の手段として用いられるという矛盾したことが分かる。これは人が罪を犯した結果で、人自身もまた自然なるものも、亡びの様から免れて、そして神の子たちの栄光に入れられる」

―――そう考えるのが、聖書の世界観であって、おそらくそれが正しいと思うのです。

 しかし、アウグスティヌスが力説していることは、観念的な神と、神学的な神、すなわち実在としての神と、父としての神との関連をつけたこと、またはつけようとしていることであり、それから自然の意味、自然と人生との意味付けをしようとしている。これは私たちに参考となるところでしょう。

 思想的に言うと、アウグスティヌスの中から、プロテスタントも出てくるし、カトリックも出てくる。両方の思想がアウグスティヌスから流れ出たと言われているのですが、近頃はどうか知らない。

二三年前日本で流行したバルト神学などというものは、カルビニズムを極端にしたようなもので、人間には本来善なるものは、何一つない。神を信じる信仰そのものが、神から与えられた恩寵でしかあり得ない―――こういうことを極端に言うのです。

 そうすると、私たちがもつ疑問は、人間の中にその恩寵を受けるべき素質もないときに、それを受け取ることができるか。

その人間も神によって造られたのですが、神に象(かたど)られたものとして造られているからこそ、神の恩寵を受けることができる。要するにバルト神学というものは、自然というものを、全く駆逐する考えです。

 その他、先ほど言ったように、文明や文化などを悪魔の業と見るという考え方が、プロテスタントの神学の中に、かなり根強く入っている。そういうことについて、私たちはもう一度、それは真理であるかも知れないが、しかしもう一度納得いくまで考え直す必要があるんじゃないかという意味です。

 初めの方に述べたことは、哲学と歴史と聖書の三つの上に、アウグスティヌスの論証が立っている。これは、哲学ばかりで、あるいは歴史ばかりで、あるいは聖書だけで議論しているよりもずっと有効です。

 アウグスティヌスが半ば自分の説を弁護し、半ば自分が批判の対象としたプラトン派、新プラトン派は、当時においての一流の哲学であったし、歴史は歴史家のヴァロの本に主に依って、またこれを批判し、そのほかフィロとかキケロとか、ローマの名高い文学者、論説家の本を見ている。

聖書は、聖書と注解とを見ている。要するに、哲学と歴史と聖書とにわたって、当時第一流の権威を基礎とし、またこれを批判の対象として、神の国を論証しているのです。

アウグスティヌスの学問が、それだけ広かったのであって、神の国を論証するのに、ただ聖書の中だけで論証するのは、論証はできますが、それは世間一般に訴える力はそう強くない。制限があります。

哲学や歴史に訴え、またこれを批判することによって、一面聖書の教えによって、これを高めることによって論証した方が、ずっと有力なのです。

 アウグスティヌスの哲学・歴史・聖書の解釈の個々を取ってみると、それは、私たちには承服できないものがある。

ヴァロの歴史は、アウグスティヌス時代には非常な権威だったが、今日ではヴァロの歴史などというものは、伝わっていないし、アウグスティヌスが引用したところによってみても、ヴァロの歴史学というものは、大したものではない。

そんなに歴史として権威を与えられるものでもないし、哲学は、プラトンは偉いが、哲学だってアウグスティヌスが依って立つところの哲学批判の対象とした哲学も、永遠的な効力は確定されないし、聖書解釈もそうです。

アウグスティヌスの聖書解釈は、今から見れば、非常なこじつけ、あるいは間違って解釈しています。

 それで結局、一つ一つのものは永遠の価値がない。「知識は廃(すた)れ預言はやむ」(第一コリント§13:8)ということは、全くのことだと思うのです。

 ただ、彼の神の国に対する愛は永遠であって、愛が生きているから、それでこの本が多くの部分において時代遅れであるにもかかわらず、全体として存在理由がある。

私たちがこれを読んで面白いということになりますが、もし神の国に対するアウグスティヌスの愛が、生きて全篇を流れていなかったならば、この本はずいぶん退屈な本でしょう。

しかし、アウグスティヌスの真理に対する熱愛というものがあるから、この本を読んで、くだらない本と思わない。私たちは興味を感じる。

なるほどアウグスティヌスの時代の人は、こういうことを考えていた。アウグスティヌスという人は、こういうことを考え、こういうことに興味をもったと思いますが、その本を生かしているものは、神の国に対する彼の熱心な愛であることは、明らかだと思うのです。

 社会科学の研究が足りないということは、これはアウグスティヌスの当時において、そういう学問は今日ほど発達していませんでした。

また、アウグスティヌス自身の過去の学問から言っても、彼は哲学、文学、歴史学に興味を持った人であり、政治とか社会の問題について、直接学問した人でないし、興味をもたなかった人です。

だから、時代の関係と彼自身の関係から、アウグスティヌスに社会科学の研究が足りないということは止むを得ませんが、しかし、神の国とこの世の国との関連は、今日においてはアウグスティヌスの時代とは比較にならないほど重要な意味をもっています。

今の私たちから言いますと、国家の本質とか、あるいは法律の本質とかについて、少しはアウグスティヌスも述べていますが、もっと詳しく述べておいてもらいたかったような気がします。

 結局一人の人に何もかもお願いすることはできないわけで、アウグスティヌスに足りないところは、他の人に勉強してもらう。他の人に足りないところは、自分で勉強するしかありません。


              「神の国」講義完


 ご一緒に「神の国」をお読みいただき、ありがとうございました。この土曜講座は、どなたかの筆記を基にしているようで、ところどころ意味が取れない所がありました。そのような個所では、私の解釈が前面に出ています。
 また、原文の意味を損なわないという前提で、文を短くしたり、語句を変えたり、英語の表記を省いたりして、なるべく読みやすいように変えたつもりです。

ですから、矢内原先生の文に親しんでおられる人がこの掲示板を読んだ場合、文の格調の高さなどが失われているとお感じになっても当然だと思います。そのような至らなさについては、御容赦ください。

 なお、この掲示板への新しい書き込みは、当分の間お休みしたいと思います。

 関連ブログをお読みいただければ幸いです。
 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 

矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.163

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月21日(水)07時50分38秒
  (「第32講」その4)

 私はこれで、神の恩沢によって、この大きな書物を書くという、私の義務を果たしたと考える。私が述べたことが少なすぎたところ、もしくは多すぎたところは、私を許していただきたい。しかし、ちょうど良いだけ私が述べたと思う者は、私と共に神に感謝を捧げてください。 アーメン。

 これが終りなのだ。アウグスティヌスが、ある点においては、多く述べ過ぎたと思い、ある点においては、述べ足りなかったと思う者でも、彼と一緒に神を讃美していいのだろう。

アウグスティヌスの時代において、これが長すぎたか短すぎたか。当時の人の要求や意見は、それはまた今日の私たちの見どころとは違うでしょう。この書物は、413年から426年まで、13年間もかかって、その間にぼつぼつ書いたもので、アウグスティヌスの著書の中でも大著です。

 この書物について、私たちは読んだというだけのことであって、しかもアウグスティヌスではないが、ある所においては説明が短すぎたり、ある所においては長すぎたりして、それについてはお許しくださいだが、アウグスティヌスについての、あるいは学問の歴史におけるアウグスティヌスの位置を論じるだけ、私たちは未だ勉強していない。

ただ、「神の国」を読んだ感想を述べてみますから、ちょっとそれを書いて、諸君が考える材料にしてください。


 「神の国」について

 1、これは哲学と歴史と聖書とにわたる神の国の論証であって、そのいずれか一つだけに基づく論証よりも有力である。

 2、哲学と歴史と聖書解釈におけるアウグスティヌスのそれぞれの説は、一時的な価値しかもたないとしても、神の国論証における彼の熱意、すなわち神の国への愛は、永遠的価値をもつ。知識は廃れるが、愛は永遠に立つ。

 3、社会科学的な考察(研究)が不足であって、したがってこの世における神の国と地の国との交渉関連の研究が足りない。

 4、神についての観念的形而上学的把握(ギリシャ的、ギリシャ哲学から来た考え)と神学的道徳的把握(ユダヤ的、聖書から来た考え)、このプラトン的および聖書的な考えの統一総合が、アウグスティヌスにおいて、著しく見られる。それが、アウグスティヌスの特色である。

 5、善悪についての自然的観念的解釈と、意志的悪として見る道徳的解釈との関係。

 これは、アウグスティヌスが善を自然(natura)と見て、自然(natura)ことごとく善である、神はすべてのものを、善くお造りになったという意味の善と、意志が神に従うことを善と見る、道徳的な意味の善―――悪についても同じですが―――が両方述べられていて、ある点においては統一しており、ある点においては不十分のように感じられる。多く議論すると難しいことになるが、問題だけ挙げておく。

 6、アウグスティヌスには、強い肯定と、来世肯定とが、共に存している。彼の自然肯定は、現世主義(この世主義)の意味での現世肯定ではない。アウグスティヌスのように、自然そのものを善と見ることも疑問があるが、自然そのものを悪と見る嫌いがあるプロテスタント神学も反省を要するであろう。


 アウグスティヌスは、自然は善であると言う。神はすべてのものを、善に造られた。自然は善であると言う。善というのは、秩序もしくは調和という観念であったでしょう。

それで、創造の調和もしくは秩序ということが、すなわち道徳的な善であるか、あるいは道徳的な善と、どのように関連させ、どのように統一してそれを考えることができるか。それが(5)で挙げた問題なのです。

 神が造られた万物の調和が、自然としての善であり、そして神の意志に対して、人間の意志の調和が道徳的善である。そう言ってみれば、自然における調和と意志の調和と、調和が善であるということに統一して考えられるのであって、調和しないものが悪である。

自然の不調和が悪であるし、神の意志に対して、人間の意志の不調和が道徳的悪である。そうなりますが、自然そのもの、存在そのものがすなわち善であると言えば、アウグスティヌスがしばしば言ったように、悪魔の中にも善があるなどという議論になってしまって、悪魔の意志は悪であるが、自然は善である。

そして、悪魔の自然は滅ぶことがないというのですから、悪魔の自然は永遠の刑罰の中においても存在し、彼は意志の罪によって、永遠の刑罰を受けるが、これを刑罰と感じる彼の自然は永続しているということになり、矛盾しているようになる。

 だから、道徳的な善と、存在の善とが、しばしば混同される。それで、アウグスティヌスは自然を強く肯定して、自然は善であると言っている。しかし、この世は不幸であると言っている。

その議論は、アウグスティヌスにおいては、彼は現世主義者(世俗主義者)ではないが、いつでも接近する危険がある。存在ことごとくが善であると言うのですから、極端に走ると、一切のことを是認することになります。

けれども、プラトン派のある哲学者は、反対の極端に立って、自然はみな悪であり、善なるものはことごとく、私たちの本性以外のところから来るのである。造られたままのもの、生まれながらのものは、ことごとく悪である、ということを極端に言います。

そのように極端に立つと、すべて自然万物の中に現れている美しさを、私たちが味わうこともできないし、また、人間の心の働き、すなわち文明とか文化とか技術とかそんなものは、すべてサタン的なもの、悪魔的なものと考えなければならない。

これは、神を信じる者でも、信じない物でも、共に従事することのできる能力ですから、すべてそれはサタン的であると言って、自然の美しさも否定し、文明、文化、技術の発達も否定して、あれは悪魔のものであると言いながら、自分たちはやはり文明、文化に浴している。

汽車などというものは、悪魔の発明だなどと言っておきながら、自分も汽車に乗っている。悪魔の発明ならば、汽車なんかに乗らなければよさそうなものだが。

食べたり飲んだりするのだって、すべて悪魔を利用していることになる。これは、自然はことごとく悪と見る人たちが、行きすぎていることの証拠ですね。

 それで、存在としての善ということ―――自然の善 bonum naturae―――と、意志の善ということとの関係を、私たちは考究しなければならないことになる。

 要するに、自然に与えられているものは、人間の心の働きでも、体でも、体以外の自然万物でも、自然に備えられているものは、要するにそのもの自体が徳の主体であることはできないのであり、善悪の根源は人の意志にあると考えなければならない。

人の意志は善であって、万物を善に用いれば、万物は善となり、善のために働き役立つ。これを悪く用いれば、悪のために働くことになるだろうと思います。


 7、自然そのものは善であるとしても、人が悪をなす機会もしくは手段となる場合には、その自然は実際上悪と不可分ではないか。ところが善は悪と不可分ではあり得ない。善と悪とは、離れることができないということはない。

ゆえに自然が善であるというのは、道徳的に善であるという意味と異なるのではないか。「もし汝の右の手なんぢを躓かせば、之を切り去れ、不具にて生命に入るは、両手ありて……」(マルコ§9:43)。その言葉を考えてみなさい。

 ここで言う意味はこうです。自然が善であるということは、存在として、他の存在と調和していることであるが、しかし道徳の善と調和するときにおいてだけ、自然は道徳的善に役立つのである。

だから自然の意味における調和と、道徳の善とが調和しないことがある。例えば、「もし右の手なんぢを躓かせば……」(マタイ§5:30、マルコ§9:43~48)ということ、右の手というのは、それは非常に美しい。体に調和している。自分の体の一部として調和しているのです。

ところが、そういう調和している右の手、自然の意味における善が、汝を躓かせることが、あり得るのです。これを切り去れとキリストが言っておられるのは、もちろん譬えですが、手を切り去ったところで、意志そのものが悪魔的である限りは、少しも生命に入ることはできません。

それは言うまでもないことですが、自然の調和は、道徳的善に衝突することがある。自然の不調和が、かえって道徳的善に一致することがある。例えば片輪で生命に入るのは、両手があってゲヘナの火に投げ入れられるよりもいい(マタイ§5:30、マルコ§9:43~48)。

すなわち自然の不調和よりも、道徳的善に調和した、神の意志に人間の意志が調和した方がいいという意味です

あるいは、酒を飲むことでも、酒は穀物もしくは果物の汁であって、これは甚だ美味しいものである。そして、有用な役に立つものであるし、また美しいものである。自然として、非常な調和の中にあり、美的なもので、実用もあって、これは善である。

それならば、酒は真に善であるかと言うと、善のために働くこともあるし、善でないことのために働くこともある。人が躓く機会になり手段になる。そういう時には、酒樽を捨ててしまう。自然の意味における善を破壊する。

ある私の知っている人の奥さんが女丈夫で、主人が酒を飲みたくてしようがない。亭主が酒を買ってくると、奥さんがそれをどこかに隠すということで、数年間戦って、とうとう亭主をキリスト者にした。

そんな美しいものを破壊するのはなぜかというと、自然の調和によって生産された物が、道徳的な善と調和しなかったからです。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.162

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月20日(火)07時57分6秒
  (「第32講」その3)

 第29章~第30章

 復活体の浄福

 復活した聖徒の体がどのように用いられるか、その使用もしくは休息の性質を了解することは、困難である。なぜなら、それは肉体的感覚の領域内に来ることはないからである。

 アウグスティヌスは、これから神を見るということについて、議論をしています。どういう議論をしているかというと、第29章に書いてあるのです。

復活体において神を見るというが、聖書にそう書いてあるが、それはいったい、肉体の目で見るのだろうか、どうだろうかという問題を掲げています。

そして、目はつぶっていても見えるに違いない。復活した後に神を見ることは、体の目はあいていても、つぶっていても、見える。だからこれは、霊によって見るのである。霊によって霊なる神を見るのである。

 しかし、それならば、目はどうか。復活体についている目は、何の役をするか。目はあらゆる有体物を見る。ちょうど今我々があらゆる有体物を肉眼で見るように、復活した後の復活体の目も、あらゆる有体物を見る。

そしてあらゆる有体物の中に現れている神を見るのである。それは、肉眼で見るので、今日でも私たちは、人を見るのは肉眼で見るのだが、人が生きているところを見るのは、やはり肉眼で見るのであり、人の体を見ると共に、その人の生命を見る。

死骸を見るのと、生きた人を見るのとでは、そこに違いがある。死骸を見るときには、死骸だけを見るのである。その一方、生きた人間を見るときには、体と生命を見るのである。

だから復活体においても、復活体の目は、いろんな物を見る。自分の体を見たり、人の体を見たり、その他の自然物の有体物を見るときに、物そのものを見ると共に、その物に宿っている神を見る。

だから復活した後に神を見るということは、目をつぶっていても霊によって神を見ることもあるだろう。目を開けていて、目で有体物の中に神を見る。霊の目と体の目の両方で神を見る。

神は霊的である。人間の霊によっては直接に霊的な神を見、人間の体の目では有体物に現れている神を見る。そう考えるべきだという議論をしているのです。



 第30章

 何らの悪に染まず、何らの善に欠けず、すべての中にあって、すべてである神の讃美に余暇を供する、かの幸は、いかに大きいであろうか。

今日各種の必要ないろいろな用途に用いられている身体の各部は、朽ちない体、復活体にあっては、ことごとく神の讃美に貢献するだろう。すべて、かの生活においては、必要はもはや存せず、十分であって確実な永遠の福祉があるだけだからである。

その身体各部の調和、身体の運動の力を叙述することは難しい。そこに真の名誉、真の平和がある。徳の造り主である神御自身が、徳に対する御褒美であろう。

各人それぞれの値する程度が異なるに従い、与えられるべき名誉と光栄の度を異にするであろうが、この浄福の都の大きな浄福として、劣った者が優っている者を嫉妬することはないであろう。

 これもなかなか面白い言葉ですね。この名誉と光栄の差、その他財産でも何でもそうですが、程度の差があることが、なぜいけないかと言えば、嫉妬があるからですね。嫉妬がなければ、名誉と光栄の度に差があることは、少しも邪魔にならない。のみならず、全体の調和と美を発揮するゆえんだろうと思う。

絵だって、色の濃淡があればこそ、色が美しい。みな一色に塗りつぶされたのでは、とても絵にならない。すべて均一にしてしまって、みな国防服に身を固めるようでは、とても美しくないですね。あれが背の高さまで均一にしてしまってごらんなさい。実用にも立たないし、美しくもない。

それぞれの徳の程度に大小があるから、それによって名誉と光栄の度が異なる。嫉妬さえなければ、それは全体の美を非常に発揮するところですね。

 天国のことは、アウグスティヌスが言っているように、感覚の領域に入ってこない。だから見たように話をすることは、できません。ただ信仰によって語るだけですが、天国に行けば、すべて均一であると思うのは、非常に杓子定規の空想のように思われます。


 来世にあっては、罪は人間を誘惑する力はないが―――人は罪を犯して喜ぶということはないが―――しかしそのために自由意志が失われるものと、思うべきではない。

自由意志の結果、罪が犯されたが、罪がなくなるからと言って、自由意志がなくなると思ってはいけない。かえっていっそう真に自由となるべきである。

人間が創造されたときに与えられた最初の自由意志は、罪を犯さないでいられる力であると共に、罪を犯し得る力であったが、この最後の自由意志は、罪を犯すことができないものであるから、いっそう優れた自由である。これは、その本性の能力ではなく、神の賜物である。

神は、神の本性から言って、罪を犯すことができず、神に交わる者は、この無能力―――罪を犯す力がないというこの無能力―――を受けるのである。

この都―――神の都―――にあっては、各市民に自由意志があり、それはすべての悪から救われ、すべての善で満たされ、永遠の喜びの歓喜を楽しみ、罪を忘れ、苦しみを忘却し、しかもその救いを、救主に感謝しないほどに忘却することはないであろう。

霊魂は、その過去の悪の知識としての記憶をもつが、感覚的経験に関する限り、過去の悪を全く忘れてしまうであろう。なぜなら、もし彼らがかつて憐れむべき者であったことを知るのでなければ、どうして永久に神の憐れみを歌うことができようか。

 最後に言ったことは、こういう意味です。自由意志と言っても、何でもできるというのが、本当の自由ではない。悪いことはできないのが、本当の自由だ。

神は自由である。しかし、神は罪を犯すことができない。罪を犯すことができないということが、真の自由だ。意志が意志するところが、ことごとく善、それが本当の自由だ。

そういう意味の自由は、人間の自然として与えられたわけではない。人間が生まれながらにもっているというのではない。だから罪を犯した最初の人が与えられた自由意志の性質は、神が自由であるというのと同じ意味ではない。

それは、程度の低い自由意志であって、それで人間が罪を犯した。最後に復活のときに、神と同じ性質の自由意志を、天国において与えられる。それは、真に自由なのだ。自由意志の無能力とあるが、その自由意志によって、神を讃美するのだ。

 最後に、神の憐れみを讃美するについては、自分が憐れまれた者であるということを、知っていなければならない。自分がかつて罪人であって、それが救われたということまで忘れてしまっては、神に讃美もできないではないか。

例えば知識と経験ということを、アウグスティヌスは医者の例を引いて、述べています。医者が患者の病気を診て、知識としては病気のことをよく知っているが、しかし、医者自身は病気の経験をもっていない。

そういうもので、天国に行って人は過去の悪について、知識としての記憶をもっている。自分は罪人であったことは知っているが、しかし経験としては忘れてしまう。自分が悪をなしたことは忘れてしまって、知識としてだけもっている。知識としての記憶もなくなってしまえば、讃美できないではないかと言っています。

 この議論は、非常に巧妙な議論のようですが、しかしまた、ずいぶん疑問を挟む余地もあります。知識と経験を、そんなに切り離して考えることができるか。自分が過去に悪をなしたことは忘れてしまうが、自分が罪人であったということは知っている。

自分の意志が罪を犯したことは忘れてしまうが、しかし神に背いたのは、罪であったということを覚えている。そんなことが可能か。

他人についての知識と、自分についての経験を切り離して考えることはできないし、自分についての知識と自分についての経験の記憶とをそんなに切り離して考えることはできないでしょう。

昔は罪というものがあったそうだということを記憶して、自分がその罪を犯したということを記憶しない。あるいは、自分が昔罪を犯したそうだということを知っているが、それが少しも苦痛を与えないというようなことを考えることは、非常に困難です。

アウグスティヌスは、過去の罪の知識をも忘れてしまうのでは、讃美できないじゃないかと言うが、しかしそう言うならば、罪を犯さなかった天使は、神を讃美することができないではないか。

だから来世に救い上げられた霊魂は、過去の罪は感覚的経験としてはもちろんのこと、知識的経験としても全然忘れてしまっても、神を讃美することはできる。すなわち、神が善であることだけを記憶し、また善であることだけを見て、讃美できる。

悪がなければ善があり得ないとは人間のこの世の生涯だけのことであって、悪がなくても善というものはある。その善を来世において私たちは楽しんで、神を讃美することができる。

アウグスティヌスは、記憶については、特別に学問的興味をもっているようですが、最後の議論については、どうかと思います。

私たちは、感覚的経験はもちろんのこと、知的経験においても、過去の悪など記憶していたくない。そんなものを覚えていては、重荷になって、神に対する讃美が、非常に哀れなものになってしまう気がします。


 この大なる安息日において、私たちは憩い、見て神を愛し、讃美するであろう。これは、終わりのない終りにおいて、あるべきことである。本当の最後であって、それが永遠である。だから「終わりのない終り」と言っている。

なぜなら、終わりのない幸福、永遠の幸福に到達する以外に、どのような幸福を、私たちは自らのために定め得ようか。これが人生の終局の目的である。

 説明しておきます。安息日ということを言っています。アウグスティヌスは人類の歴史を、アダムからノアまで、ノアからアブラハムまでというふうに順々に数えて、キリスト降誕の時までに経た、神の天地創造のいわば五日間は過ぎていることになると言っています。

そうすると、キリスト以後現代は、六日目になる。その六日目の長さは、いつまで続くか分からない。その時その日を知る者は、誰もいない(マタイ伝§25:13)とキリストが言っておられるのだから、いつまで続くか分からない。

その点は、近頃の再臨論者よりも、アウグスティヌスの方が、ずっと健全ですね。いつまで続くか分からないが、ともかくこの次に来るのは、第七日目である。その安息日において、七日目に到達する。

 それで本文が終ります。

(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.161

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月19日(月)08時11分28秒
  (「第32講」その2)

 人を傷害するためにもまた、いかに多くの種類の毒物や破壊の器具が発明されたか。一方では、健康の維持および回復のための処置、医薬は、数え難いほどである。異端者および哲学者の誤謬、間違い、誤解の説の証明にさえ、その中に輝かされた天才を、十分述べ尽くすことはできない。

現在において、この朽ちるこの世を飾るものは、人の心の自然であり、あるいは本性―――本性と言っても自然と言っても意味がよく出ませんね―――であり、不死に導く信仰と、真理の道とにあるのではない。

この偉大な自然は、至誠の真の神によって造られたことが確かであるから、人類の始祖アダムの罪がよほど大きかったのでなければ、人類はこの世を永遠の不幸に陥れたこともまた、あり得なかったであろう。


 説明しておきます。最後にお話したのは、人間の心の働きの微妙なこと、そして能力のあることを、アウグスティヌスが述べたのであり、初めにあったのは、赤ん坊の時代には眠っていたような自然、本性が大人になって目覚めて知識を学ぶ力をもち、また教育を受け、真なるもの善なるものを悟って、これを愛する。

そしていろいろ思慮分別をつけ、徳を吸収して悪と戦って、至高不変の神を求める。その驚くべき力を、人間の心というものはもっている。それは、神がそういう性質を賦与されておられるからだ。

 このような道徳以外にも、もっと実用的な方面を見ても、人間の心は、いろんな技術を発明している。全部を書き上げたわけではありません。

途中略していますが、いろんな職布、建築、農業、航海とか、その他陶器、絵画、彫刻等のいろんな技術を考え出す力、すなわち発明する力またこれを用いる力は驚くべきものだ。

人を害したりするためにさえも、いろんなものを工夫している。異端者と哲学者―――哲学者というのは、ギリシャの哲学者―――の間違った、あるいは不完全な論証についてさえも、天才が輝いている。この天才、能力を神は人間に賦与しておられるのである。

だから人類が犯した罪がよほど大きくなかったら、とても人類の不幸ということは、こんなにはあり得ないだろう。それほど神が自然にお与えになった善は大きい。また人類が犯した罪が大きいということを意味しているわけです。


 さらに人の身体は獣のように死に、多くの点において獣よりも弱いものであるが、その中に、どのような神の善、どのような造り主の知恵が現れているか。(以下人体の用途と美とを述べています。身体の外部だけでなく、内部の構造の調和の美を述べて、人体の創造においては、実用よりも美に多くの考慮が払われていると言っています。)

 筆記を簡単にしましたが、実に美しいところであって、アウグスティヌスは人間の体の各部分に、いろんな働きがある、また美をもっていることを述べています。

アウグスティヌスの美に関する論は、調和と整合が彼の美学ですから、人体の外部に美があるだけでなく、内部にも美がある。神経系統や血管にも美(整合)があるように思う。

アウグスティヌスの言葉によると、医者の中には残酷な学問的な熱心をもって身体を解剖する人がいる。解剖学者と言っている。

その者たちは自分が手術して死んだ者さえ解剖するといった非人道的なことをするが、その目的は、その病原がどこにあって、それを治療するにはどうすればいいかを発見するためである。今の解剖学者と同じですね。

そうして身体の内部の構造を調べるが、しかし、神経や血管の構造の調和を見出すことはできないと言っている。しかし、人類の知恵が発達して、よく分かれば、人間の体の内部においても、美しい調和があるのだろうと、アウグスティヌスが言っています。

 それから、美と実用について言っていることは、人間の体の部分は、両者共通である。実用であってまた美であるのが多いが、美だけであって、実用のないものもある。

例えば男の乳などというものは実用でない。それからひげもそうだ。もしひげに守る効用があるならば、女の方に必要だろうと言っている。どうかね、はやしてみるか。だから男子の乳やひげなどというものは、美のためだ。

アウグスティヌスが言うには、必要というのは、この世限りのことだ。天国に行って、朽ちない体になると、今人間の体の各部分のもっている実用は、意味を失うものが多いのだ。しかし、美というものは永遠である。

これはなかなか面白い考えですね。神が人間の体を造ったのは、美と実用を兼ねてお造りになったが、どちらが主かと言えば、美の方が主だ。人間の体は、外側も内側もことごとく美である。実用のない美もあると言っている。なかなか観察が細かいですね。


 神の善が人の目を喜ばせ、また人の目的に役立たせるために、人にお与えになった、その他の創造の美と効用とを、どうしたら述べることができるだろうか。

空と地と海との多種多様な美について語ろうか。光の豊かな供給―――ある人が指摘して言うには、アウグスティヌスには、光が非常に沢山出てきているのです。光の哲学者と言ってもいいくらいに、たびたび出てくる―――と、驚嘆すべき性質について、花の色と香りとについて、羽毛と歌とすべて異なる鳥の群れについて、動物の種類について語ろうか。

動物の中の最少なものが、しばしば最も驚異である。蟻と蜜蜂の業は鯨の巨大さよりも、いっそう私たちを驚かせる。

私は、海について語ろうか。いわば種々の色彩の着物をつけて今あらゆる度合いの緑に流れるかと思えば、再び紫もしくは青となって横たわる。海そのものが甚だ大いなる観物である。

 最後にあった、海についての叙述は、実にうまいですね。こういうところを読むと、アウグスティヌスは全く詩人であったと思う。詩人は非常によく観察しなければ、詩は作れないのであって、アウグスティヌスの生き届いた観察が、名文を生んだのですね。

海が緑のあらゆる度合いで流れるかと思うと、次にまた紫また青となって静かになる。これは、観察の結果であって、自分で見たに違いない。海そのものが大きな観物であって、その他いろんな海に関する叙述があります。嵐のすばらしい叙述がある。

いろいろな人間の食べ物や着物を供給されることを述べています。木の実などについてもいろいろ述べていますが、それは略します。


 誰が、私たちが受けるすべての祝福を数えることができるであろうか。しかし、すべてこれらのものは、罪に定められた憐れむべき者の慰藉に過ぎず、祝福された者に与えられる褒賞ではない。この世は哀れな状態であるから、それに対する慰めとして与えられているに過ぎない。

だからもし罪に定められたこの世において与えられている祝福が、こんなものであるとするならば、祝福された者の報いは、どれほどであろうか。もはや何ら悪徳のない人の霊魂は、どれほど幸いな状態になるであろうか。また体はどのようになるであろうか。

それは、あらゆる点において、霊魂に従い、霊魂から十分生命を得て、他の糧を必要としなくなるであろう。

なぜなら、それはもはや血気ではなくて、霊的であり、肉の実体をもってはいるが、何ら肉的腐朽をもつことがないからである。

 それが、第24章の大意です。先ほど言ったように、自然の美を賞賛し、自然の中の人間の生殖および胎生のことから、人の心の造られたこと、また心の働きを述べて、心の働きの中の道徳と、広い意味の文化の働きを賞賛し、

それから人間の体の外部および内部の構造を賞賛し、自然の美しさ、また自然が人間の衣食住を供給するその役目を眺めて、神が造られたものに賦与された本性は善でかつ美であることを、褒め称えています。



 第25章~第28章

 身体の復活に関する哲学者の論

 哲学者の大部分は、来世における霊的幸福については、私たちと一致するものであるが、ただ肉体の復活については、彼らはこれを否定する。

しかし、プラトンによれば、霊魂は体なしには永遠に存在することができないと言い、ポルフリーは、聖(きよ)められた霊魂は、再び朽ちてしまう身体の不幸な生活に帰ることがないと言っており、両者の説の優れたところを取って結び合わせれば、キリスト教の信仰と一致するであろう。

 肉体の復活を否定する議論およびそれに対する反駁は、前にありましたが、ここでも議論の順序として、またそれに返ってきたわけです。

来世における霊魂の幸福においては、ギリシャの哲学者と、キリスト教とは意見が違わないが、ただ問題になるのは、肉体が復活することであって、これはギリシャの哲学者たちは否定している。

しかし、そこに書いたように、ポルフリーは、霊魂が肉体に帰ることを否定して、霊魂が肉体を離れることがすなわち幸福だ、肉体は不幸の源なのだから、それから離れることが、霊魂の幸福なのだと言っている。

しかし、ポルフリーの先生株であるプラトンの説によると、神々でさえも、肉体を離れないようにということを、至高の神にお願いした。至高の神は、神々に対して、また聖い人に対して、賢人の霊魂に対して、肉体を与える力をもっている。

ただこの世が、不幸な哀れな世であるから、それでポルフリーのような説ができたのだが、ギリシャの哲学者のプラトンとポルフリーの説を合わせてみれば、霊魂はポルフリーが心配するように、朽ちる体に帰ると思わずに、朽ちない体に帰ってくることにすれば、キリスト教の信仰に一致するじゃないか。

それでギリシャの哲学者自身が、議論を整理してくれば、すなわちプラトンが言うように霊魂は肉体に帰ってくるが、ポルフリーが心配するような朽ちる体ではなく、朽ちない体に帰ると考えれば、収まるじゃないか。もう一歩進んで来いというわけです。

 その他にも、二三の哲学者の説、例えばヴァロとかキケロなどの説を述べていますが、煩わしいから略します。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.160

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月16日(金)07時55分7秒
            第32講 第22巻 第21章~第30章
                           1941年3月15日

 今日は、第21章から第30章まで読みます。第21章から第24章までは、この世の不幸と幸福についての話です。第21章は、はしがきのようですから略します。第22章、23章は、その不幸に関する論です。少し書いてください。

 全人類は、始祖の罪により、その生涯は無数の害悪によって満たされる。少年時代に受ける刑罰だけでなく、大人となった後も、多くの害悪と危険と災難の中にある。

キリストの恩恵によるほか、この地獄から逃れ出ることはできない。これらの、善人悪人に共通な不幸の他に、正しい人に特有な苦しみがある。これは彼らが、自己の悪徳と戦い、その戦いに関して、誘惑と危険とに巻き込まれるからである。

どれほど勇敢に、私たちが悪に抵抗し、どれほどこれを克服するのに成功するとしても、この肉体に留まる限り、私たちは常に神に向い、「私たちの負債を許してください」と言わなければならない。


 非常に簡単に書きましたが、この世において人類の受ける不幸を、第22章で一般的に述べて、第23章では、キリスト者だけにある、正しい人にだけある
苦しみについて述べたのです。

そこではいろいろの人間の出会う害悪と危険と、それからいろんな事故に遭うことを、非常に沢山列挙しています。争い、憎しみ、生れつきの不幸といったことを、よくこんなに単語を知っていると思うくらいに単語を並べているのです。

少年時代に受ける刑罰とは、「告白」を読んだ時のことを思い出すでしょうが、少年時代には、教師もしくは親から叱られる。よほどアウグスティヌスは、これが身にこたえていたものと見えますね。

子どもの時に叱られたり、罰せられるだけでなしに、大人になっても苦しみ、災難にあう。道を歩いていれば災難に遭うかと思えば、やっと家にたどりついて、家の敷居をまたいだ時に、事故によって死ぬ。

それならば、部屋の中にいれば安全かと言えば、そうでもない。誰それという人は、部屋の中で椅子に腰かけている時にどうした、といったことが、沢山列挙してあります。



 第24章

 私たちは、今やそのすべての被造物を思いやってくださる神の善を基として、人類のこの不幸な現世をさえ満たしてくださる、豊富で数え難い祝福を考えなければならない。

人類の堕落以前に神が告げられた最初の祝福は、「産めよ殖(ふ)えよ地に充てよ」(創世記§1:28)であったが、これは、人が罪を犯した後にも、神は禁じられない。本来賦与された生殖の力は、罪を犯した人類の中に残った。

この人類生殖の流れにおいて、人から出る悪と、神から授けられた善との二つの要素が、共に流れてゆく。

本源的悪において、罪と罰という二つのことがあり本源的善において生殖と生成という二つのことがある。

神は人を罪に定めるに当たり、彼が人にお与えになったものを、ことごとく撤回されなかった。これは、人として絶滅させないためである。また神は、刑罰として、人を悪魔に服させるに当たり、神御自身の支配の外に、人を移されなかった。悪魔そのものさえ、神の支配の外にあるのではない。

なぜなら、悪魔の本性(自然)は、最高の造り主によってのみ存在するのであり、どのような形において存在するにせよ、万物に存在を与えられるのは神であるからである。かつ神だけが、今に至るまで働く力によって、種を発芽させ、ある秘かな見えない源から、私たちの見る美しい形を発展させられた。

彼だけが、ある不可思議な方法によって、霊的な自然と、有体的自然とを結合し、一つは支配し―――霊的な性質の方が支配し―――他は服従するものとして、生物をお造りになった。

神のこの御業は、甚だ偉大で驚異すべく、理性的生物である人間だけでなく、最も微小な虫や昆虫でさえ、これを注意して観察すれば、驚嘆と造り主に対する讃美とをせずにはいられないのである。


 第24章は、長い章です。造り主である神を讃美する、たいへん美しい章です。前の第22章は人生のいろいろな不幸を列挙した章ですが、それに対して第24章は、この世において知られ得る美しいものを数え上げたのですが、文章としても、第22章と第24章とでは、後の方がずっといい。

第22章は、人生の不幸を、本当に単語をあげるようにして挙げているのですが、第24章の方はたいへん美しい。詩のように書いてあります。

 今読んだところでも、アウグスティヌス的な考えが出ていますが、人類は罪を犯して神はこれを罰されたが、しかし神がお与えになった自然の善を、神が撤回してしまわれたわけではない。自然は善なるものとして、継続しているのだという考えです。

 先ず真先に挙げたのが生殖と生成ということであって、人が子を生む力、また生まれる子どもがいかにして形を成すか、すなわち種から人間にまで成る過程は実に不思議だ。

どうして体をもち、また霊魂をもち、体と霊魂とが結合して、生物となったのか。目に見えないものから、目に見える生き物ができたのは、進化と言おうか、実に驚嘆すべきものだ。


 さらにまた、人間に心を与えて、その理性と悟性とを、嬰児時代にはあたかも眠れるように横たわり、年齢が進むに従って、目覚めて働くようになり、知識を学び、教育を受け、真なるものを悟り、善なるものを愛するに相応しい者にさせるのもまた神である。

この力によって、霊魂は知恵を吸収し、思慮、忍耐、節制、正義等の徳を与えられ、もろもろの悪徳と戦い、その欲望を至高不変の神以外の目的に向けないことによって、これらの悪徳に打ち勝つのである。

私たちの生涯をよく用いて、無限の幸福に到達させるべき徳と呼ばれるこれらの技術に加えて―――上に述べた思慮、忍耐、節制、正義の徳は、個人の生涯を無限の幸福に到達させるべき技術である―――人の才能は、無数の驚嘆すべき技術を発明し応用したではないか。

これらは、一部分は必要に基づく発明の結果であり、一部分は喜ばしい発明の結果であって、この心の働きが活発であることは、単に無用のものだけでなく、有害で破壊的なものさえ発明するほどである。

人間の発明力は実に旺盛なもので、良いものばかりでなしに、つまらない物、あるいは有害な物でも発明するものであって、そのような技術を発明し、学び、もしくは使用し得る本性(自然)の才能は、すべて神が授けたもので、無限である。

人は驚きをもって、次のように言うであろう。いかに驚嘆すべき知力を、人間の勤勉は、職布、建築、農業および航海の技術にしたか。いかに無限の変化によって、陶器、絵画、彫刻のデザインが作られ、いかなる熟練によって遂行されたか。

いかに驚嘆すべき演劇が、劇場において演ぜられるかは、これを見た者でなければ、信じ難いところである。野獣を捕らえて殺し、もしくは馴らす工夫は何と巧妙なことか。


 野獣云々というところも、アウグスティヌスがしばしば言っていることを思い出しますね。「告白」にあり、「神の国」にもありましたが、アウグスティヌスは劇場に行くことを奨励していない。つまらないところであると言っているのです。

しかし、これは、その劇場で観るもの、演じられる観物は、本当に驚嘆すべきところがあるとも言っている。何を言っているのかよく分かりませんが、おそらく普通の劇ではなくて、その次に、野獣を捕らえて殺したり馴らしたりとかありますから、サーカスのようなものを言っているのだろうと思います。

劇場そのものはつまらないものだが、しかし、その中に驚嘆すべき人間の技術を見ることができます。

今日、私たちが連想するのは活動写真ですね。活動写真というのは、内容的に実につまらないことが多いのですが、技術は実に感心します。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.159

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月15日(木)07時53分3秒
  (「第31講」その6)

(「第12章~第20章」その2)

それから、一番大きい人の体の大きさに準じて復活するかということは、どこから来ているかと言うと、ルカ伝第21章の18節に「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくさない」という言葉があるのです。

それで髪の毛一本さえ失われないというのだから、もっているものは少しもなくならないと言うが、もたないものを付け加えてやるとは言っていないと言うのですね。

それはどういう関係になるかと言うと、……そうそう、これには前提が一つあるのです。すべての人が一様に完全な人として復活するという前提がある。

そうするとその完全な人は、どのくらいの大きさだろうかと言うと、もし平均的な中ぐらいの人間をとると、ある者は自分のもっているものの一部を取り去られてしまうわけだから、髪の毛一本さえなくさないという言葉に矛盾するというわけだ。

何か失われる。平均より背の高いものは、背の高さがとられる。平均よりも小さい者はどうかと言うと、もたないものを付け加えられる。けれどもキリストはそんなことは約束しておられないのだから、これは一番大きい者を標準として考えると、一番大きい人は失わない。

それ以下の者は、先ほど言った能力によって、そこまで伸び得ると考えて、完全というものは、一番大きい人の水準まで達する。そう考えてよかろう。

けれどもそれには先ほど言ったように反対論があって、もたない者が与えられることになるのだから、一番大きい人を標準に取ることには無理がある。

 それならば、キリストの大きさに達するのであろうか。これはエペソ書第4章13節に、「我らをしてみな信仰と神の子を知る知識とに一致せしめ、全き人すなはちキリストの満ちたれるほどに至らせ、(新共同訳では、「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」)とあります。

「ほど」の原語は「大きさ」ですから、「満ちたりた大きさに至らせ」ということになるのです。キリストの満ちたりた大きさにまで至らせなのだから、そこで各人の復活体は、キリストと同じ大きさに達するのであろうか。

アウグスティヌスのもっていたヴルガータ、ラテン語の聖書では、「キリストの完き齢の大きさに至らせ」とある。私たちのもっている聖書では、「齢」という語が省かれています。省いた方が正確なのでしょうが、「齢」という語がなければ、「キリストと同じ大きさに至らせ」だから、キリストと同じ大きさに、皆がなる。

しかし、アウグスティヌスが言うには、そういうことはない。これはキリストの齢の大きさは30歳なのだから、キリストは30歳でなくなられたのだ。人間というものは、30歳まで発達する。30歳に達すると発育が止まって、それからはだんだん小さくなっていく。

キリストの齢の大きさというのは、人間が最も発育した絶頂において、各人が復活すると考えればいいだろう。だから老人は若返り、子どもは発育して、発育の絶頂の大きさで復活すると考えていいだろう。

けれども先ほど言ったように、アウグスティヌスはそれには固執しない。各々が死んだ時の大きさで復活すると考えてもよかろうと言っているのです。

 女はどうかというと、これは今言ったエペソ書第4章13節の「完き大きさに至らせ」さらにロマ書第8章29節に、「神は預じめ知りたまふ者を御子の像に象らせんと預じめ定めたまへり」とある。

「御子の像に象らせんと」というのだから、御子キリストは男だから、それで男の像に象らせるのだから、女でもみな男になるということになる。

それに対して、アウグスティヌスが言うには、これは霊的に解釈すべきであって、神が男と女とに分けてお造りになったのは、神を讃美するためである。だから来世においては、男女の別に基づいた肉情は消滅するが、男女の別は神を讃美するためにあり続けるだろう。

 そのほかのことでは、爪や髪の毛はどうだろうというと、髪の毛一すじでも損なわれないというと、散髪屋さんで散髪した髪の毛や切った爪もみな復活するとなると、爪はたいへんな長さになるし、髪の毛はぼうぼうとして、ひげはもじゃもじゃとして、ずいぶん汚いじゃないか、と言って冷やかす者がいる。

それに対してアウグスティヌスが言うには、髪の毛を失わずというのは、長さを言っているのではなく、数のことである。「一すじ」という数を言っているのだろう。爪もそうであって、切り捨てた爪全部ということでなくて、爪の数だと解釈しなければならない。

 不具は片輪のままに復活するかと言うと、そんなことはないだろう。ただし殉教者が殉教のために受けた傷痕は、復活してもあり得る。

なぜなら、殉教者が受けた傷痕は、これは名誉の印であって、醜いものではない。輝かしいものであるから、それは残るだろう。ただし、手足を切られた者、それはただ痕(あと)だけ。このように細かい議論をしています。

獣に食われたもの、水中や空中に分散したもの、火に焼かれたもの、人間に食われた人間というのは、最大の難問であったと思います。いつかもお話しましたが、復活を冷やかす議論として、今でも言われていることですね。それは、アウグスティヌスが問題をあげて、自ら答えていることなのです。

 アウグスティヌスは、こういう説明をしているのです。人に食われた人の体の部分は、蒸発によって外に出る。そして、神によって集められて、元の人に返される。食われた肉は、貸したお金のようなものだから、貸主に返ると言っています。

 復活体について、こういうようなことをいちいち咎めだてし、詮索して議論するのは、全く冷やかすための議論であり、いちいち答えたからと言って、復活の証明ができるわけでなし、答えることができないからと言って、復活が否定されることもありません。

いわゆる枝葉末節の議論ですが、しかし先ほど言ったように、アウグスティヌスは丹念な人であり、すべての疑問に対して、大きい疑問も小さい疑問も、ことごとく答えていくたちの人ですから、詳しくこれを数え上げました。

 しかしまた、反面から見ると、先ほど言ったように、復活を冷かすとか、奇跡を冷やかす議論は、今でも絶えていませんが、今の人が冷やかす議論は、アウグスティヌスの時にもあったのであり、

それに対してアウグスティヌスがいちいち答えているのですから、私たちがこいう問題においても、冷やかしを受けたときには、そんな問題はとっくに片付いている。

今から1500年前に、もう済んだ問題だということができる。それだけのことをアウグスティヌスはしておいてくれました。そう考えてもいいでしょう。

 今日はそこまでにします。


(「第31講」完)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.158

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月14日(水)07時48分1秒
  (「第31講」その5)

 第8章~第10章

 現代の奇跡について

 反対者が問うていわく、果たして奇跡が前になされたのであるならば、何ゆえ今日奇跡がなされないかと。

答えて言う―――アウグスティヌスが答えて言うのに―――奇跡は世界が信じる前に、それ(世界)(キリストを)信じるために必要であった。今日において(キリスロを)信じることができるようになるために奇跡を要求する人は、妙な人である。なぜなら、全人類が信じることを、彼が信じないからである。

かつ今日においても、キリストのサクラメント―――洗礼とか聖餐とかの礼典です―――により、もしくは聖徒の祈りまた遺物によって、キリストの名において、奇跡がなされることがある。ただ昔の奇跡に比して、顕著でないだけである。

ことに世界が広くなったので、一地方に起こった奇跡が、世界全体の住民に知られないことがある。


 この奇跡論の初めのところも正しいことですね。奇跡ということは、世界の必要に応じて行われるものであって、キリストの復活昇天ということを世界が信じない時に、信じさせる必要から、奇跡があった。

今ではそのことが、確立されたことであるから、奇跡の必要がない。今は奇跡以外の方法によって、そのことが論証される。奇跡という方法は、真理証明の一つの方法なのですから、ある時には奇跡によって証明し、ある時には奇跡を必要としない。他の方法がある。

アウグスティヌスはここではなく、前に学んだところで言っていることですが、キリストの弟子たちが迫害殉教を恐れずに、キリストの復活と昇天とを証明した。それが証明の方法です。

キリストの名のために、迫害殉教を恐れなかったことが、一つの奇跡である。つまりキリストが神であることの、証明の方法なのです。

だから、アウグスティヌスが言っていることを私たちが解釈すれば、今の時代においてキリスト当時の奇跡を要求する者は、時代錯誤に陥っているのです。

今はキリストが神であることを信じようと思えば、他の人々がいかに、この信仰のために一身を犠牲にしようとしているかを見ればいい。それを見ればそれが証明である。

しかし、今日でも奇跡が行われていないことはない。アウグスティヌスは、自分が知っている奇跡でもずいぶんあると言って、彼はここに21の例を挙げています。

それを見ますと、今日の医者が医学雑誌にいろんな病気の例を報告しているのに似ています。アウグスティヌスが監督をしていたヒッポだけでも70ある。

盲人の目が開いたとか、悪い腫瘍が癒されたとか、婦人の乳がんが癒されたとか、その他いろんな例を沢山挙げています。ずいぶん面白い。中には迷信的なこともあります。



 第11章~第20章

 ここでは、復活を否定し、もしくは嘲笑する多くの説について述べています。


 第11章

 プラトン学派の反対論に基づく反対論(第13巻第18章参照)。 一度あった議論です。それをここでまた繰り返しているのです。

プラトン学派は、世界の元素は四つあって、一等下が土で、その上が水で、その上が空気で、その上が天、エーテル界と四つに分けた。だんだん上になればなるほど軽い。そういう宇宙論をもっているので、土からできた人間の体が天に昇るということは、重みの法則から言って不可能である、と言っている。

それに対する反対論も、アウグスティヌスが前に述べたところです。土でできたものは水より重いが、しかし、舟は水に浮いているではないか。鳥が空中に飛んでいるのはどうか。そういうことがあり得るのだから、体がエーテル界に昇るということも考えられる。


 第12章~第20章

 第12章以下は、次のような疑問を列挙して、いちいちこれに答えています。

 一、堕胎児は復活するか。
 二、小児の復活体の大きさは、小児の大きさであるか、大人になった時の大きさであるか。
 三、各人の復活体の大きさは、最大の人の大きさであるか、あるいはキリストと同じ大きさであるか。

 四、女子は女子の形で復活するか。
 五、ルカ伝第21章18節の言葉に基づいて、髪の毛もしくは爪はどうなるか。
 六、不具者はどうなるか。

 七、切断された体の部分はどうなるか。
 八、獣に食われたり、火に焼かれたり、水中または空中に分散したりした体の部分。
 九、他の人に食われた人の体の復活について。


 当時の人が問題とした、いろんな子どもの疑問のようなものを数え上げて、そしてこれに答えています。ずいぶんつまらない疑問のように思われますが、問題とされたあらゆることを取り上げて、これを究明しようという、アウグスティヌスの根気のいい、またすべてのことを明らかにしなければ止まない研究心の強さにあきれます。

余談ですが、私なども、一番感じるのは、よくこれを、アウグスティヌスが書いたと思うことです。字を書くのはずいぶん骨で、思うことをこんなに一々丹念に書きつけることにはあきれますが、彼の議論はこうなのです。

 堕胎児は復活するかどうか。アウグスティヌスの答えは、死んだ場所は問わないというものです。とにかく人間として生きていたのであれば、死ねば復活すると考えてよかろう。アウグスティヌスは、これを強く主張していないが、復活すると自分は思う、ということです。

 子どもは子どもの時の大きさに復活するのだろうかと言うと、アウグスティヌスの言うには、それは子どもの時の大きさと思ってもいい。老人ならば、老人で死んだ時の状態。各々の人が死んだ時の体の大きさと考えてもいい。

それは何も否定するわけでないが、しかし、人間の体には、子どもの体にでも発育する力が潜んでいるのだから、その力が発揮されて、十分に発達した状態において復活すると考えても差し支えない。

むしろ自分は、子どもで死んだ者は、人生の盛りの状態において復活すると考えたいと思う。けれどもそれには、敢えて固執しないというのが、アウグスティヌスの意見です。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.157

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月13日(火)06時52分38秒
  (「第31講」その4)

 キケロの復活否定論について

 キケロは復活を否定している。キケロは地の体が地(球)以外の場所に存在することを、自然の法則が許さないと言って、肉体の復活を否定する。この世の学者は、キケロの言った言葉を引いて、復活を否定する。

しかし、地には地的な体と結合された生ける霊が満ちているではないか。神がすべての体、したがって天の体より優れた霊が、地の体に結合されることを許されるならば、地の体が天の体に高められることは、怪しむに足りない。

世に信じ難いことが三つある。
 (一)キリストの肉体が復活して、天に昇ったこと
 (二)このことを世界の大多数が信じたこと
 (三)このことは、少数の無学な弟子たちが宣べ伝えたことであるにもかかわらず、世界が信じたこと

である。このうち(一)を疑う者―――キリストの復活を疑う者―――も、(二)と(三)とを否定することはできない。

ローマはその創設者ロムルスを愛したのでこれを神であると信じた。神の都の民は、キリストを神であると信じるので、これを愛する。

ロムルスを神とすることについては、ただこれを信じるということであって、事実として述べられているのではなく、またこれを証明するに足る奇跡の徴が伴っているのでもなく、またその事が前から預言されていたのでもなく、

またローマ市民以外の者は、ロムルスの名の威嚇によってロムルスを神とすることを強要されるに過ぎず、ロムルスが神であることを認めて、これを拝んだ者は、かつていない。かえって、彼が神であるという信仰を告白するよりも、死を選ぶ者があるのである。

これに反して、多くの罰、いや死そのものさえ、世界中大多数の殉教者がキリストを神として礼拝し告白することを妨げることはできない。

彼らは一時的に、この世の安心のために、その不信仰な迫害者に向って、戦うことをなさず、むしろ迫害者に対する戦争を控えることによって、永遠の救いを得ることを選んだ。

彼らは縛られ、獄に入れられ、鞭打たれ苦しめられ、焼かれ、略奪された。しかも彼らの救いは増した。

キリストの復活昇天は、もしそれが真理そのものの神性―――真理が神としての性質をもっている―――もしくは神性の真理とこれに伴う奇跡とによって証明されなかったならば、とうてい信じられなかったであろう。

真理と、それに伴う奇跡の証明の力により、多くの残酷な迫害の反対と恐怖とにかかわらず、まずキリストにおいて、次いで新しい世界におけるすべての人において、肉体の復活と不死とが宣べ伝えられ、全世界に種をまかれ、殉教者の血によって豊かにうるおされたのである。


 非常に簡単に述べました。けれどもこの前も言いましたキケロの「共和国論」という本の第三巻に、キケロが復活の問題を述べて、ローマの建国の主であるロムルスが復活をして天に昇ったという話があるが、そんなことは信じられないと、ここで述べています。

それが信じられない理由は、地でできている地の体が、地以外の場所に存在すること、すなわち自然の法則によって地から生まれたものが天に存在することは信じられないと、キケロが述べている。

それでキケロいわく、今から六百年前―――ロムルスは、キケロより六百年前の人であった―――には、まだ人間の知識が発達していなかったから、ロムルスが天に行ったなどということが信じられたのだが、今時そんなことは、信じられないと言っている。

 それに対してアウグスティヌスが言うには。地の肉体が天の肉体に高められるということよりも、そもそも物体が霊魂と結合することの方が、もっと不思議だ。

地の体が天の体に変わって高められて天に行くことは、地と天の違いはあるが、同じ物体であるから、そう不思議もないが、全然性質の違う霊魂と体とが結合することの方がまだ不思議である。

ところが霊と体とが結合したものは、地上においても沢山いるのだから―――生物はみなそうなのだから―――、それを認める以上、地の体が天に行って存在することも、考えられることである。これが第一のポイント。


 第二のポイントは、キケロの言うには、ロムルスは今から600年前のことだからそう思われたが、今時そういうことは考えられないというのに対して、アウグスティヌスが言うのに、キケロ(106~43BC)の時から、キリストが生まれたアウグストゥス皇帝(27BC~14AD)の時まで約60年経っている。

そうするとロムルスの時からキケロの時に至る間に、世の中はすでに進歩したのであるから、ロムルスが復活したなどということは信じられないと言うなら、キリストの生まれた時には、さらにいっそう人間の知識が進歩していたはずである。

ところがキリストの昇天が信じられて、全世界に広がったのはどういうわけだ。単に知識の発達によって否定されるべきものであるなら、とうてい説明できないではないかと言う。

 そこで、キリストが復活昇天したのは不思議だが、今日全世界の者が、それを信じているというのが不思議である。しかもそれがペテロとかヨハネとか無学の弟子たちが証をしたことが、今日全世界に受け入れられているということが不思議である。

 ともかくキリストの復活昇天ということを、アウグスティヌスの時までに、全世界の人々の大多数が、これを信じていることは事実であって、どうしてそういう不思議な事実が起こったか。それを哲学者たちが信じないのはどうしてであるか。

キリストの肉体の復活昇天ということが、事実であったからこそ、この信仰が全世界に伝わったということが、あり得たのである。

哲学者たちが、キリストの復活昇天を信じないと言って否定しているが、他の事すなわち少数の無学の者が宣べ伝えたことを、全世界が受け入れたという不思議な事実を疑うことができないだろう。

 それは何によって説明するかと言えば、他に説明の方法はない。すなわち彼らが信じることを拒んでいる第一の点を、事実として認めるより他はない。実際ロムルスが昇天したということと、キリストが昇天したということとは、まるきり性質が違う。

 キケロがロムルスの昇天を否定したことで、キリストの昇天を否定することを、多くの学者がやっている。それは大間違いの議論である。

ローマ人はロムルスを建国の先祖として愛したゆえに、これを神として祭り上げて天に行ったという信仰をもち、キリストにおいてはこれと反対でキリストを神と信じたゆえに、これを愛するのである。

ロムルスは一般の先祖崇拝と同じであり、先祖を愛するゆえに、これを人間以上の神として拝んだにすぎない。それが神であることを事実によって証明することは一つもない。

神としての品性をもっていたとか、神としての能力をもっていたということは何もない。ただこれを愛するゆえに、神として祭ったのである。またそれが神であることを証明する奇跡が少しも伴っていない。

ロムルスが生まれたとき、狼のお乳で養われたという物語が伝わっている。狼のお乳を飲んだということは、何もそれで神であるということの証拠にならないじゃないかと、アウグスティヌスは言っています。

それはそうだね。狼のお乳を飲んでも神じゃない。それからロムルスが神であるという預言が、前々からあったわけでもない。

 そういうことはすべて、キリストの場合では備わっているのであって、キリストの場合では、キリストが神であるという事実、復活昇天が事実として述べられている。それから、キリストが神であるということの預言が前々からある。

 ロムルスは神であるということの信仰が迷信であって、キリストは神であるということの信仰が迷信でないことの違いは、後世に及ぼす結果からでも分かる。

ロムルスが神であるということは、ただ少数のローマ人が先祖を愛するゆえにロムルスを神として拝んだのと、ローマ市民以外の者は、ローマ帝国の権力によって脅かして強要したから、恐怖によってロムルスを神と認めただけのことであった。

本当に神と思った人はいない。だからロムルスのために生命を捨てる者はいないのだ。これは、本当のことですね。本当にそうであって、今もそうです。

最近に行われた最も顕著な事件の一つは、去年のことですが、満州国に天照大神が祭られた。それで、満州国の建国の精神は、日本の天照大神から出たのであるという解釈の下に、日本の天照大神を、満州国の神にしました。

それはいわば、ローマの市民以外の者がロムルスを神として祭るようなものであり、ロムルスの名の恐怖によって、強要された信仰にすぎない。満州の中から天照大神のために生命を捨てるような者が一人でも出てきたとすれば、私首をやってもいい。そんなことはない。

これに反して、キリストが神であると言うためには、多くの殉教者が血を流して、しかも自分の迫害者に対して戦いを挑むということは、神から許されていないから、ただ反対に戦いをしないこと、その道だけがキリスト者に許された真理証明の手段であった。

それによって多くの血が流されたが、しかしキリスト者が勝ちを得た。今日全世界が、キリストが神であること、またその復活昇天を信じていることは、これが真理であることの証明であるだろう。非常に力強い議論です。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 

矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.156

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月12日(月)06時50分6秒
  (「第31講」その3)
(「第23章」その3、第22巻)


 憐れみによって云々ということは、ヤコブ書にあります。ヤコブ書§2:13に

 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。 (新共同訳)

とある。人に対して憐れみを施した者は、裁きに打ち勝つのだから、永遠の刑罰を免れる。

 マタイ伝の山上の垂訓にある言葉は、

 わたしたちの負い目を赦してください、
     わたしたちも自分に負い目のある人を
     赦しましたように。   (マタイによる福音書§6:12)

 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。   (マタイによる福音書§6:14)

ですから、人の負債を赦し、人の悪事を赦し、施しをなし、人に憐れみを施す。慈善をする者は、どんなことをしても、自分たちは永遠の刑罰を免れることができる。

アウグスティヌスが言っていることは、自分たちの過去の罪(過去の負債)を赦していただく時に、その条件として、他人の罪を自分が赦すから、自分の罪も赦してくださいと言って祈るのであり、将来の罪に対して、神から特許状を得るようなわけではないということです。

これからも自分の悪を継続するが、自分が他の人の罪を赦したように、それを咎めないでくださいなどと、言えるわけではありません。

そんなことが赦されるなら、金持ちは、銅銭十枚を毎日施すことによって、殺人、姦淫その他あらゆる種類の罪について、免罪をもらうことができるというような、馬鹿げた結論になるじゃないかと、アウグスティヌスは言っています。

ルターの宗教改革の時に、ローマ法王庁は、免罪符を売り出して、それを十銭で買えば自分の魂も救われるし、死んで行った人の魂も救うことができると言った。それを連想すると、とても面白いですね。

 いろいろ論旨が沢山あって、アウグスティヌスが言っていること自体が、混雑していますが、その要点は先ほど言ったように、永遠の刑罰を否定する考えは、愛に基づいた人情論であるし、また聖書にその根拠を求めるものであるが、しかし人情よりももっと大切なことがある。

それは、神の権威を認めることである。アウグスティヌスの主張の根本は、私たちは賛成できるように思います。個々の点については、不明な点もあるし、賛成できかねることもありますが。



     第22巻

 第22巻は、最後の巻ですが、神の国の終局と、聖徒の永遠の浄福という問題を取り扱っています。

 第1章~第3章

 第1章から第3章までは、神の国における聖徒の永遠の浄福は、神の永遠不変な意志によるのであるから、その約束は必ず成就すべきであると言っています。

 神の都の永遠の幸福は、アウグスティヌスが言うには、単に長く続くことではないのであって、その永遠は常磐木が絶えず新しい葉を出して、永遠に青いという意味の永遠ではない。神の国に属する各個人が、不死の状態に到達することである。

神の意志は永遠不変である。神の意志が変わったように見えるのは、神の意志が変わったのではなくて、人間の方が変わったのである。これは前にこういう議論があったと思います。

例えば、憐れみの神が怒りを発されたと書いてある。そうすれば、神の意志が変わったように見える。あるいは神は、例えば人間を造られたことを後悔したと書いてある(創世記§6:7)。

それは、神の意志が変わったように見えるが、実は神の意志が変わったのではない。変わったのは人間であった。今まで愛されていたと思っていた人が、今度は神に叱られたように思ったのである。

人間の方の心持が変わって、人間の状態が変わったから、神の意志が前には憐れみであったのが、今度は怒りになったように思われる。これは前にもそういう議論がありましたが、面白い考え方ですね。

人間の状態が変わったから、神の方は同じでも、同じ神が恐くなったり優しくなったりする。神はいつも変わらない。こちらに気が咎めることがあると、神が同じ顔をしていても、何だか恐い顔をしているように思えるというのです。

 さらにこれに関連してアウグスティヌスは、神の意志と人の意志の関連を述べて、こういうことを言っています。

神の意志が人に映じる、あるいは人に宿るときに、それが人の方から考えて、神の意志であるということは確実であるが、いつそれが果されるか、いつ成就するか分からない時に、神が欲される時に、かくかくのことが起こるだろうと人が言うのである。

神においては、神の意志は永遠不変であって、その時になって初めて神の意志ができるわけではないが、人間の方が理解できないから、神が欲される時にこうなると言う。

あるいは神の意志であるかどうかが人に分からないときに、神が欲されるならば、こうなるであろうと言う。神が欲するならばということは、神の意志は永遠不変であって、常に欲しておられる。人がそれを理解できないために、そういう条件付きにして言うのである。ということを述べています。

私たちが汽車に乗って、汽車の窓から外を見ていると、汽車が走っていないで、電信柱が走っているように見える。それから何でもそうです。

地動説・天動説、そういう説をする人が、地球が太陽の周りを回るとか、太陽が地球の周りを回るとか言う。どちらが本当であるかというと、どちらも本当です。地球を中心として考えれば、太陽が地球の周りを回っていると言ってもいいのだそうです。

しかし、神と人間との関係では、それは応用できない。つまり神が永遠不変であって、人間が変わっていると言ってもいいし、人が永遠不変であって神が変わっていると言っていいかと言うと、それは言えない。

神の意志は永遠不変である。そういう永遠不変の意志が約束されたのであるから、神の国は成就され、聖徒が永遠の幸福を受けるのです。


(以下次回に続く)
 

矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.155

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 9日(金)07時01分22秒
  (「第31講」その2)
(「第23章」その2)


 いろいろ難しい問題が、複雑になっているものですから、簡単に述べることは困難ですが、第一の点は、一番根本的な問題は最後に書いたことで、聖書の教えを聖書に教えられている通りに受け取らないで、自分の欲するように解釈する態度は間違っている、というものです。

これは、確かに適切な注意であると思う。聖書には、キリストを信じる者は救われ、キリストを信じない悪人は滅ぼされると明瞭に書いてある。これは、神は愛であるということと、同じくらい明瞭に記されています。

私どもは、聖書を読むときに、聖書によって聖書を読まなければなりません。そうすると、両方とも明瞭に書いてある。一方だけ、自分の好む方を取って、他方を否定するような読み方ではいけない。

たとえば永遠の刑罰。神は正義の神であって、恐ろしい神である。その点を捉えて、そればかり振り回し、神は憐れみの神であることを否定するならば、それもまたいけない。

同じように、神は愛であるという言葉をつかまえて、永遠の刑罰、神の正義を否定することも、わがままな態度です。アウグスティヌスの言葉で言えば、出過ぎた態度です。多くの場合は、自分の都合のいいように解釈する。

 よくこういうことを言う人がいる。万人救済説を主張する人は、神は愛であるということと、それから自分は罪人であるということの二つの事実に基づいて、これを主張する。

自分のような罪人でも救われたのだから、誰でも救われる。万人が救われるはずだ、と。つまり、自分に対する恩恵を基礎として、神は愛であり、自分は罪人であるのに救われるくらいだから、救われない人は世の中に一人もいないと言うのです。

その論理は、あるところまでは正しいが、あるところ以上は正しくない。というのは、自分のような者でも、キリストの恵みを受ければ救われるのだから、誰でもキリストを信じさえすれば救われるとは言えるのですが、しかし、すべての人がキリストを信じて救われるとは言えない。

そこまで言えば私たちは言い過ぎになる。すべての人がキリストを信じて救われるということにはならない。そんなことは、人のことで、自分には分からない。神のことであるし、他人のことであって、自分の知らないことなのです。

自分の知っていることは、自分だけのことです。客観的な、一般的な問題として考えれば、キリストを信じれば救われる。信じなければ救われない。これは、厳然とした神の原理、原則であって、それを思って私たちは、恐れおののくより他には、それに対してとるべき態度はない。

これが一つ、第一の一番重要な問題です。聖書を、自分の都合のいいように、自分の好みに従って解釈してはいけない。聖書は、聖書そのものの客観的権威を私たちが認めて、それに私たちが服従しなければなりません。

私たちの好みによって、聖書を解釈してはいけないということですね。

 それから第二の問題は、信仰と行いという問題です。これをアウグスティヌスがここに述べているのです。それを系統的に論じる場所ではないから十分徹底していませんが、その論旨は、ここに書いてある限りでは、次の通りです。

信仰と行為という問題を説くに当たって、第一にアウグスティヌスが挙げているのは、信仰というのは、形式的な形のことではないということです。洗礼を受けたとか、聖餐を受けたとか、そんなことには何の効力もあるものではない。これは、異端の教会に属していようが、正統な教会に属していようが変わりません。

洗礼や聖餐を受けた後、どんなに堕落した生活を送っても、あるいは偶像礼拝をしても、結局救われるのだ、というようなことは言えないと言っている。私たちは、それが絶対に正しいと思う。

 それならばさらに進んで、その信仰は形式的でなくて、本当の信仰であるとして、その信仰と行いを並べてみるとどうだろう。その問題について、アウグスティヌスはガラテヤ書の第5章19節から21節までの記述に即して、大いに論じているのです。そこには、こういうことが書いてある。

 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前に言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 (新共同訳)

 だからこういう肉の行いに耽(ふけ)っている者は、神の国を継ぐことはできない。神の国を継ぐことができなければ、永遠の刑罰を受ける他はない。中途半端な中間状態はない。神の国に入るか、永遠の刑罰に入るか、どちらかである。

そうなりますと、道徳的に清い生活をしない者は、神の国に入ることができないことになりそうです。

 そこでまた、ヤコブ書第2章の言葉について論じているのです。ヤコブ書第2章14節に、

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

とある。ガラテヤ書の言葉や、ヤコブ書第2章14節の言葉と、パウロの信仰とはどのような関係にあるかを論じるに当たって、アウグスティヌスが引いているパウロの言葉が、コリント前書第3章の15節です。コリント前書第3章の11節から読んでみます。

イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。

だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

「その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」ということだから、自分のした仕事は保たずに、火に焼かれてしまっても、自分は火から逃れることができる。永遠の刑罰を免れることができると、パウロは言っている。これとヤコブの言葉とは矛盾するように見えるが、どのように解釈すればよろしいか。

 アウグスティヌスは、それについて、少し妙な説明をしています。あまりこの問題に深入りすると、面倒なことになりますから、アウグスティヌスの説明を略しますが、人は信仰によって義とされるか、行いによって義とされるかという問題の提出の仕方を、アウグスティヌスはこの場所ではしていないのです。

また、この永遠の刑罰を否定する論に対する反駁として、今言った、人が救われるのは信仰によるのか、あるいは行いの伴わない信仰は、本当の信仰と認められないかということを、論じる必要もないのです。永遠の刑罰の存在を主張することについては、それは必要のないことです。

ただ、その問題についてのアウグスティヌスの論拠は、洗礼を受けたり聖餐を受けたりしていても、それだけでは役に立たない。清い生活を送らなければならないと言っているのです。

キリストを土台としていれば、どんな堕落の中に生活を継続していても、堕落の生活に対しては罰を受けるが、永遠の刑罰からは逃れ出るという考えは、本当にキリストを土台とし、キリストの肢となっていなければならないのです。

キリストの肢となっていれば、私たちがキリストの土台の上に建てた建物、金や銀で建てた、また木や藁で建てた者は、永遠の刑罰を免れる。

ただ、アウグスティヌスは、金や銀で建てたのは、結婚しない人のことであり、結婚した人は、藁で建てた人であると、妙な解釈をしています。そして結婚した人は、火で焼かれて苦しい目にあう。例えば配偶者が死んだなど、生別死別の悲しみに会わなければならないが、自分は救われるのだという、妙な意味に解釈しています。

そして、真にキリストの肢であり、またキリストを土台としているということは、自分たちの生活を、堕落の中に継続することではない。

これは言うまでもないことですが、私たちが本当にキリストを信じて、キリストの土台の上に自分がつながっていれば、いかに不完全な者であっても、信仰によって救われます。

けれども、それは私たちが堕落した生活を継続していいという特許ではない。アウグスティヌスが言っていることは、結局そういう趣旨だろうと思います。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 

矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.154

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 8日(木)07時42分15秒
     第31講 第21巻 第17章~第27章・第22巻 第1章第20章
                          1941年3月8日

     第21巻

 今日は第17章からです。第21巻の第17章から第27章までは、キリスト者の側から来る、永遠の刑罰を否定する論です。今まではキリスト信者でない側からの否定論を述べました。今度はキリスト者の側からの否定論を述べるのです。


 第17章

 オリゲン( http://en.wikipedia.org/wiki/Origen )―――初代教会の先生にオリゲンという人がいた。ギリシャ時代の神学者―――は、悪魔でさえついには救われると言い、またすべてのものに対し、祝福と苦痛とは、一定の周期で、永久に交代的に来ると言った。



 第18章

 不信仰な悪人は、これに値する長い刑罰を受けることを認めるが、最後の審判の時になれば、聖徒の祈りと執成(とりな)しによって、神は彼らを憐れんで、赦されるであろうと言う者もいる。



 第19章

 永遠の刑罰からの救いの約束を、すべての人間に及ぼさないが、いやしくも洗礼と聖餐を受けた者は、どのような生涯を送ったか、またどのような異端に陥ったかを問わず、すべて救われると言う者もいる。



 第20章~第21章

 異端の洗礼および聖餐は除外し、カトリック教会でこれを受けた者は、その生涯のいかんを問わず、いかに堕落した者であっても、永遠の刑罰を免れ、ついには永遠の救いに入ると言う者がいる。



 第22章

 自分の罪を、施しによって覆(おお)わない者だけが、永遠の罰を蒙るという説がある(ヤコブ書§2:13、マタイ伝§6:12、14~15)。



 第23章

 第23章以下は、上述の諸点に対する反駁であり、その要点は次の如くである。箇条書きにしておく。

1 聖徒の祈りと執成しの効力をなぜ悪魔にまで及ぼして論じないか。悪魔も救われると言わないか。

2 浄福については、それが永遠であることを認め、刑罰についてこれを認めないことは、不合理である。

3 ガラテヤ書§5:19~21に記された者は、天国を継ぐことはできず、したがって永遠の刑罰を受けなければならない。なぜなら、両者の中間的場所はないからである。

4 マタイ伝§6:12、14~15の言葉は、私たちの過去の罪が赦されるための条件であって、罪を継続しながら、施しまたは憐れみによって、悪に対する免許を得るものと、考えるべきではない。

5 これらの人情論は、自分自身のために主張するものであって、全人類に対する神のまがいものの憐れみにより、自分自身の堕落した生涯も赦されるであろうという、虚偽の望みを抱くものである。

6 聖徒の祈りと執成しとは、死後―――死んだ人―――の魂に対しても有効であるが、それは永遠の刑罰に至るまでの間であって、神が永遠の刑罰に至ることを命じられた者について、その罰が永遠であることを否定することは、出過ぎたことである。

人は悔改めてその悪を捨てない限り、キリストの肢―――キリストを頭とする肢―――ではなく、したがって永遠の罰を免れることはできない。上述の論旨は、聖書の権威を認めるが、聖書の教えるようにではなく、自分の欲するままに未来を考えているので、誤った解釈に陥るのである。


 あまり簡単に書き過ぎたから、反って分からなかったと思います。説明しておきます。

 この近頃の神学にも、万人救済説(universal salvation)というのがあって、人間はすべて救済されると言う。アウグスティヌスがここで述べているのは、主としてその問題です。

 永遠の刑罰否定論の中にもいろいろあって、万人に対してこれを否定する意見が一番広いのですが、万人とは言わなくても、キリスト教の洗礼と聖餐を受けた者はみな救われる。

もっと範囲を狭くして、聖餐や洗礼といっても、異端と認められる教会に属する者はだめだが、しかし正しい教会―――カトリック教会―――に属する者ならば、たとえどんなに堕落しても、洗礼を受けた後に堕落しても結局救われるというのです。

 それからさらに範囲を狭くして、憐れみをもって慈善をする人は、どんなに罪を犯しても、その慈善の力によって救われる。といった具合に、いろいろな説がある。

要するに永遠の刑罰を全人類に対して否定するとか、あるいはその内のある人々に対して否定するという議論がある。こういう人々は、悪に対しては罰を受けることを認めるが、それは大きな悪事をすれば長く罰せられ、小さな悪事をすれば少なく罰せられるのであって、永遠の刑罰ということはない。

 アウグスティヌスが述べた中には、はっきり現れていませんが、近頃の万人救済説の一つの根拠として、神は愛であると言う。神が人を永遠に滅ぼすことは、神の本質が許さないことであるから、神は愛なのだから、全人類を救う。近頃は、そういう意見が言われています。

 しかし、アウグスティヌスが述べている、この部類の永遠の刑罰否定論の中からも、神は愛であるという説に対する答を、私たちは引き出すことができます。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.153

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 7日(水)07時54分14秒
  (「第30講」その6)
(「第2章~第10章」その2)


 もっと不思議なことがある。これは、自分が見たわけではないが、自分の友人の司教の話によると、その司教がアフリカのある貴族と会食したとき、その貴族が銀の皿の下に磁石を置いて、銀の皿の上に鉄を置いた。すると、下にある磁石が、銀の皿を通して、鉄を吸いつける。不思議だ。その司教は、嘘を言う人ではない。そんなことがある。

ところが、ダイヤモンドを傍に持っていくと、磁石は鉄を引きつける力がなくなる。鉄を引きつけていても、ダイヤモンドを傍に持っていくと、鉄が磁石から離れる。これは本から読んだのだ。そんなことがあるかね。それはありませんね。

 それから、ある泉があって、昼は泉が冷たく、夜は熱くなる。昼は温度が上がって、夜は温度が下がるのが普通だが、その逆です。

 それから、松明に火をつけて泉の中に入れると消える。ところが、消えた松明を持っていくと、火が付く。これはガスだね。天然ガスに違いないのだ。

どうして私がそれを知っているかと言うとね、ラジオで「私はガスであります」を偶然聞いていた。初めて天然ガスを発見した人の話をね。どうもアウグスティヌスの言っていることは、それじゃないかと思うのです。

 ダイヤモンドは非常に堅くて、何を使っても印をつけることはできないが、山羊の血で書くことができるということを本で読んだ。

 そういうことを沢山書いてあり、中には信じ難いこともあるが、自分が実際目撃したことも、確かな人から聞いたことも書いてあります。そして、一カ所だけでなく、あちらでもこちらでも、実に不思議なことがある、と言っている。

 そして、最後の審判で、火の中に体が放り込まれても、体が消えないことはあり得ないと言うなら、諸君は上に述べたような不思議な事実を説明してくれと言うわけです。

それを説明できないならば、神がなされる奇跡だって、―――アウグスティヌスが言うには―――理性では説明できなくても、信じられないことはないじゃないかという議論をしているのです。

 ところが、いろんな不思議な事の中には、人間が工夫したものがある。また悪鬼が魔術によって行う、不思議な業がある。人間の工夫という話の中で、アウグスティヌスは実に面白い事を言っています。

 アテネのヴィーナスの宮では、野ざらしになっている灯火で、いくら風が吹いても消えないものがある。これは実に不思議だと言っている。アウグスティヌスは、それはアスベストスという石を入れ、それに火をつけて、いつまで経っても消えないように細工をしているのかも知れないと言っています。

 偶像の宮―――これはアウグスティヌスの空想―――の屋根の上に磁石を置き、床下に磁石を置けば、鉄で造った偶像は、中間に停止する。そういうことをしてみたら、人は驚くだろう。この偶像はもったいないなどと、人は言うだろう。

人間の工夫によっても、そういうことができる。悪魔だっていろんな悪魔の工夫によって、魔術を行う。人間でも悪魔でもそういうことができるのであるならば、なおさら神は、しようと思えばできないことはない。

人の体は、アダムが罪を犯す以前には、今の体と構造が違っていた。人が死んで後に復活した体に特別の性質を神が与え、そして火の中に入れても焼けないようにするということは、必ずしも信じられないことではないだろうと、アウグスティヌスは言うのです。

 聖書に書いてあることだけに限らず、この世の世俗的な本の中に書かれていることを引用している。

例の歴史家のヴァロのある本に、ヴィーナス、すなわち金星に変化があって、色も大きさも形も変ったと記載されている。星さえそういう変化があるのだから、人間の従来の経験と異なることを、神が自然界に起こすことは、少しも理解し得ないことではないはないか。

そういうふうにアウグスティヌスは議論をして、最後の審判の時に、悪人が永遠に消えない火の中に放り込まれて、そこで永遠に苦痛を受けることは、信じることができることであると言っています。



 第11章~第16章

 刑罰が永遠であることについて、短いこの世の生涯で犯した罪に対して、永遠の刑罰を与えるのは、正しくない、罰の期間が罪の期間よりも長くなるという非難がある。その非難に対して、アウグスティヌスは次のように弁護する。

同じことは、地上の生涯の刑罰においてもあるではないか。人類の始祖の罪が大きいものであることを思えば、刑罰が永遠なことは、怪しむに足りない。

自分の中にある永遠の善となり得るはずのものを破壊した者は、永遠の罰に値すべきものとなったのである。プラトン派は、すべての罰は、この世におけるものも、死後におけるものも、練り清める目的をもつものとした。

アウグスティヌスも、この世および死後における一時的刑罰のあるものには、その練り清める性質があることを認めるが、それらはすべて最後の永遠の刑罰の前にあるのである。(すなわち結局最後の審判が来るのである。)

 括弧の中は私の説明ですが、そういう意味だろうと思うのです。説明しておきます。

 刑罰が永遠であることについて非難する者があって、どんなに罪を犯したって、この世の生涯は短いものであるのに、それに対して永遠の刑罰を受けるなどというのは、無理な話ではないか、と言う。

アウグスティヌスは、それに対して次のように言う。そんなことは、この世にだってある。ちょっとかっぱらいをしたという場合、ほんの数分間の罪に対して、三年も懲役に行ったりすることはあるじゃないか。そんなことは、ちっとも不思議じゃない。

ことに人類の罪というのが、どんなに大きな罪を犯したかを考えれば、永遠の刑罰は、不思議ではないというのです。

 あるいはまた、プラトン派の者は、刑罰というのは教育的な目的をもつのであって、刑罰によって教育を与え、不純を除くという意味があるのだと言っている。アウグスティヌスは、刑罰にそういう意味があることを承認する。

この世においても、あるいは死んだ後の裁きにも、教育という目的があることを承認するが、しかし、だからと言って、刑罰をすべて一時的なものとして、永遠の刑罰を否定することは、間違っていると言う。

永遠の刑罰は必ず来るのであって、その最後の裁きの来る前に、今いったような意味の一時的な裁きというのはあるのだが、どうしても人間というものは、最後の審判に当面しなければならない。

 その最後の審判を免れるには、キリストを信じるより他はない。だからこの人生そのものが、一種の罰と言ってもいいくらいに、苦しみと悲しみの多い世の中で、どんな赤ん坊でも涙と共にこの人生を始めた。

笑いつつ人生に出てくる赤ん坊というのは、まずない。泣いて生まれてくるということは、今後の彼の一生の運命を表現しているものである。

笑って生まれてきたというのは、たった一人である。ゾロアスターというペルシャの宗教を作った人ですね。アウグスティヌス曰くだ。ゾロアスターは笑って生まれてきたそうだが、しかし彼でも幸福ではなかった。笑って生まれてきたことは、当てにならない。

ゾロアスターは、魔術教であるゾロアスター教を作ったが、ついに殺された。人生というものは、涙の谷という言葉は使っていませんが、不幸なところである。そこに生まれた者は、いろいろな害悪を受けるだけでなしに、ある場合は、悪霊の攻撃さえ受ける。

永遠の刑罰を免れようと真実に思えば、キリストによって義とされ、本当に悪魔からキリストに移ることが必要である。最後に、

 自分の青年時代を、放埓な、もしくは粗暴な行為によって、または不義不敬な生活に沈むことによって、呪うべき生活をすることのない人は、数多くない。

たいていの人は、律法の教えを受け入れておきながら、まず悪の力に打ち負かされて、違反者となり、それから初めて恵みの助けへと向くのである。

この恵みによって、激しい悔改めと厳しい戦いの後に、やっと神に従うものとされ、肉に対する霊の戦いに勝利を得るのである。

 この世において、永遠の刑罰を免れようとする者は、キリストによって義とされ、真実に悪鬼よりキリストに移ることを要する。

そして、この恐るべき裁き以外に、何らかの煉獄的な苦痛があると思ってはならない。結局、最後の恐るべき裁きの前に立たなければならない。

 これは、アウグスティヌスが「告白」に述べている経験を思い合わせてみると、アウグスティヌスの言っていることの意味が、よく分かります。

永遠の刑罰を伴う、最後の審判はどうしても来るのだから、それに出会うことができるように、人生を歩んでいる間に準備しなければならないと、アウグスティヌスが言っているのです。

 言い忘れたが、磁石とかダイヤモンドとか、不思議なことは「インドから来た石」だと書いてあります。インドではそんなものはざらにあり、ちっとも不思議ではないのだが、私たちは、初めて見た時には不思議に思う。しかし、だんだん慣れてくると、不思議ではなくなる。

そのように、奇跡、つまり知らないことは不思議だが、知れば不思議に思わないと言っています。

 今日はそこまで。


(「第30講」完)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.152

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 6日(火)06時46分41秒
  (「第30講」その5)

 第2章~第10章

 第2章から第10章までは、肉体は燃える火の中で、永遠に存在できるかという問題を論じている。

 書くのは略して、お話だけしておきます。ちょっと意外な問題を非常に詳しく述べています。私たちはそういうことを考えないですね。

私は考えないのだが、最後の審判では、悪人は永遠の火の中に投げ込まれると書いてある(黙示録§20:14~15)。アウグスティヌスは、永遠の火を霊的な比喩として取ることで満足しない。そう取るなら、そう取っても良いが、しかしこれは、物質的に本当の火と解釈する方が、なお良いのだと言って、本当の火と解釈します。

そうすると、最後の審判で悪人は肉体が復活して、裁きの火の中に放り込まれるのですから、しかもその火が永遠に消えなくて、悪人の苦痛が永遠であるというのだから、それでは体が焼かれてしまわないか。

いったい、火の中に放り込んでも体が焼かれないというのは、どういうことなのだろう。これはおそらく、アウグスティヌス一人の疑問でなく、当時の難問の一つであったのでしょう。

 それで、非常に詳しくそのことを論じているのです。いろんな証明の論述をしていますが、第一に言っていることは、こうなのです。

 火の中、最後の刑罰の中では、肉体は永遠に苦しむ。苦痛は継続するが、死なない。このように、苦痛と死との関係を、初めに論じています。苦痛は死を必然的に結果しない。

いったい苦痛を感じるのは霊魂が苦痛を感じるのであって、肉体そのものが感じるのではない。肉体のある個所において、ある事柄またはある不調和が起こると、それを人の魂が苦痛に感じる。

あまりにその苦痛を感じるときには、魂が肉体から飛び出す。魂は肉体に留まりたいと思うのだが、魂の意志に反して、肉体から飛び出す。これが死になる。

最後の審判においては、火に放り込まれて、また魂は苦しいから、肉体を飛び出たいと思うが、それは許されない。その時は、霊魂の意志に反して、肉体に留まっているようにされる。これが第二の死というものである。

第一の死は、霊魂が自己の意志に反して肉体から飛び出すことであり、第二の死は、霊魂が自己の意志に反して肉体の中に留まるようにされることである。だから肉体が苦痛を受けても、死なないことがある。

死ぬ死なないということは、本来霊魂の問題として考えてみると、第二の死ということは、すなわち霊魂が肉体を離れることができないことが、第二の死であって、第一の死は、霊魂が肉体を離れるということである。

だから、焼かれても消滅せずに、苦痛だけを永遠に受けるということは、あり得るのだ。これが第一の論点です。

 第二の論点は、肉体は火の中に放り込まれたら消えてしまうと言うが、必ずしもそうとばかりは限らない。世の中を観察すると、理性によって解し難い不思議な事実が、自然界に幾らでもあると言って、不思議な事実なるものを非常に沢山列挙しています。これは、非常に面白い。

 ある自然科学者―――博物学者―――の言うところによると、サラマンダーという火の中に住んでいるヤモリのような動物がいると言う。それから、熱いお湯の中に住んでいる生物がいる。そういうことをアウグスティヌスが書いています。

火の中に住んでいるというのは、アリストテレスの書物の中にあるのだそうですが、しかし、アリストテレスは、これは確かではない、そういう話は聞いたが、自分は確かではないとことわっているそうです。

お湯の中に住んでいる生物はいますね。しかし、火の中に住んでいる生物というのはいるのかね。私は知らないね。

 それから実に奇抜なことを言っています。シシリー島の有名な火山は、太古から火を噴(ふ)き続けているが、消滅しない。火は燃えるが消えてなくならないとアウグスティヌスは言っているのだが、それはどうかね。

これを物体は火の中にあっても、消え失せないという例として挙げていますが、どうかね。そういうわけで、火の中にあっても、消えない物があるのだから、神は火の中にあっても、消えない性質を復活体に与えることはあるだろう。

 それから、多くは火に関しているが、いろんなことを彼は書いている。火は赤く燃えて熱しているものだ。けれども、火に触れた物を黒くするという。それから石を火の中に入れると、これを白くする。同じ火の中に入れても、物によって白くなる物もあれば、黒くなる物もある。

 それから木炭、炭だね。炭は非常に長もちするもので、土地の境界を決める時に、境界に柱を立て、その下の土地に木炭を埋めておく。後で争いが起こった時に、木炭のある所によって、土地の境の争いを決定する。それくらいに木炭は長もちする。

ところが、木炭の原料である木材は、非常に堅いが、腐ってしまう。木炭は非常に脆い質であるが、長もちする。

 それから、アスベスト(石綿)は冷たいが、火をつけると、火がいつまでも消えない。アウグスティヌスは、自分が見たわけではないが、聞いたと言って、書いています。

 冷たいで思いだしましたが、アウグスティヌスは籾殻(もみがら)は不思議なもので、雪より暖かいものであるが、雪を消えないようにする、大変不思議だと思うって書いています。

 それから、石灰というものは、実に不思議なものである。これは、水をかけると熱くなる。ところが、油をかけても熱くならない。

 クジャクの肉は腐らないという説があって、アウグスティヌスは自分で食べたそうです。食べて残りがあったから、残りをしまっておいたけれども、何ともない。プラトンの肉は腐ったが、クジャクの肉は腐らない。これは大変不思議だ。

 磁石という石を見たことがある。これは鉄を吸いつける。そしてその磁石に吸いつけられた鉄にまた鉄をもって行くと、また吸いつけられる。鎖のようにずっとつながった。実に不思議だ。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 

矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.151

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 5日(月)07時38分12秒
  (「第30講」その4)

 第3章~第15章

 最後の審判のあることと、その内容―――最後の審判はどういうものであるか―――と悪人の報い―――悪人がそれによって何を受けるか―――とを、聖書ことにマタイ伝に書いてあるキリストの言葉とヨハネ黙示録第20章によって説明している。

その詳細は略すが、アウグスティヌスは第一の復活を信仰による霊的復活―――現世において洗礼によるものである―――と解し、第二の復活を肉体に関するものであって、最後の審判において成就されるものと解している。

 第一の復活を経た者は、最後の審判において、不朽不死に移され、そうでない者は、第二の死に会うと解釈している。

 アウグスティヌスは、主として黙示録第20章の注解をしながら、その議論をしているのです。第一の甦り、第二の甦りを、アウグスティヌスはそこに書いたように解釈した。

 これは今日の聖書解釈とは違っています。今日では、この世において信仰により新たに生まれたことを、復活とは言いません。アウグスティヌスは、それを弁駁するために、聖書のテキストをいろいろ引いています。

信仰により新たに生まれるということは、復活と言わずに新生といいます。第一の復活と混同してはいけません。アウグスティヌスは、それを同一のものと見ています。

 聖書に書いてある第一の復活、第二の復活は、キリストが再臨される時に、先ずキリストを信じた者が、先に復活するのを、第一の復活と言う(黙示録§20:6)。それから千年王国があり、千年の間、キリストと共に復活した信者が、世界を治める。

千年が終って後に、第二の復活がある。その時にキリストを信じない者と、信じた者もすべて復活して、最後の審判によって、キリストを信じる者は神の国に、信じない者は、永遠の火の中に入れられる(黙示録§20:13~15)。

そういうふうに、肉体の復活を二段に分けて考えているのが聖書の内容なのです。

 それでアウグスティヌスが、第一の復活を寓意的に霊の新生と解したのは、聖書の本文の解釈として無理なようです。



 第16章~第17章

 アウグスティヌスは、黙示録第21章で、最後の審判において、善人―――信者―――が受けるべき分を説明している。その中で、神は「彼らの目の涙をぬぐい取ってくださる」(黙示録§21:4)という聖句について、次のように述べている。これは、アウグスティヌスの言葉です。

「黙示録は、その名称―――現す、啓き示す―――にかかわらず、多くの不明な章句が含まれている。来世および聖徒の不死と永生について、これ以上明白に述べられたことはない。

もしもこの句―――神は彼らの目の涙をぬぐい取ってくださる―――を不明と考えるならば、聖書のいかなる部分にも、明瞭な記述は一つも見出すことを期してはならない」。

 これは有名な言葉ですから、そこに書いておきました。第15章までは、最後の審判において、悪人が受ける運命のことを述べて、第16章第17章は、新天新地、新たな都であるエルサレムが、天から下ることを述べて、この句のことを述べているのです。

そこの2頁ばかりが、大変美しいのです。全く頑迷でかつ議論好きな人間でも、この世の災いの真っただ中で、神の都の民、もしくはその中の一人でさえも、あるいは現在涙を流している。

あるいは過去において涙を流したことがある。あるいは将来に流す涙をもたず、もしくはその苦しみがなくて、生きているものがあることはないのだからと言うこと、すなわち、人間と言う人間はみな悲しみをもっていることを書いて、最後に「神は彼らの目の涙をぬぐい取ってくださる」を引用し、

これほど明瞭な文句はない、黙示録では分からないことが幾らでもあるが、この句が分からないというならば、聖書の中に分かる句は一つもないと言っているのです。



 第18章~第29章

 最後の審判について、旧新約聖書の証言を挙げています。

 ペテロ後書§3:3~13
 テサロニケ後書§2:1~11
 テサロニケ前書§4:13~16
 イザヤ書§26:19、§66:12~16
 ダニエル書§7:15~18、§12:1~3
 詩篇§102:25~27、§50:3~5
 マラキ書§3:6、§3:19~24



 第30章

 旧約聖書では、最後の審判がキリストによって行われることの明らかな示しはないが、私たちは常にその意味に―――神が来る時には、子なる神すなわちキリストが来るという意味に―――解釈する必要がある。

 その他いろいろなことを述べていますが、省略します。



     第21巻

 第21巻の問題は、神の都と相対した、悪魔の都の終局と、罪人の永遠の刑罰です。

 第1章

 序言

 序言にはどういうことが書いてあるか、お話しておきます。どうして悪の都の終局の方を先にして、神の都の終局の方を後にするか。その理由をアウグスティヌスは三つ挙げています。

一つは、この二つの都の終局は、共に肉体に関係している。肉体の運命は、両方の都の終局に出て来るから、先ず共通点のある方から先に述べるというのが、これが第一。

第二は、肉体が永遠の幸福を受けることが、刑罰を受けることよりも、むしろ理解しやすい。肉体が永遠の刑罰を受けることの方が、理解し難い。理解し難い方を先に論じよう。

これが分かれば、後の神の都において、肉体が永遠の幸福を受けることが、理解しやすくなるだろう。難しい方を先にしよう。

第三は、聖書の最後の審判において、悪人の運命を先に述べているところと、善人の運命を先に述べているところと、どちらが多いかと言えば、どちらもあって、聖書の証明は、どっちとも言えないと言っている。

最後の点などは、あまりにもアウグスティヌスの考え方が中世紀的であって、聖書の文句に悪人が先ず裁かれて報いを受け―――悪人が地獄の火に投げ込まれ―――、それから善人が永遠の幸福を受けると書いてあろうが、

善人が永遠の幸福を受け、悪人が裁かれると書いてあろうが、言葉の順序と事柄の順序とは必ずしも一致しないと今日では思いますが、アウグスティヌスは聖書にある記述の順序が、事件の順序であると、こういう場合にでも堅く取りすぎています。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.150

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 2日(金)07時47分11秒
  (「第30講」その3)

第25章~第28章

 神から離れた民は憐れむべき者である―――真の幸福をもっていない―――が、しかしながら地上の民は、それ自身の平和を有している。この平和は軽んじるべきではない。私たちもこの世にある限り、この平和を受けることは、私たちの益である。

使徒パウロも、私たちが平静な生活をなし得るように、上に立って権を取る者、治める人に従うべきことを勧めている(ロマ§13:1)。

しかし、私たち神の都の民にだけある平和は、今日は信仰においてこれをもち、後永遠に享有するのに反し、今日すべての人に共通―――神の都と地の都の両方に共通―――な、地上生活の平和は、積極的な幸福を楽しむというよりも、むしろ不幸の慰安であるに過ぎず、私たちの義も、この世にあっては徳の完成よりも、むしろ罪の除去にある。

最後の審判によって、善人は至高善に、悪人は至高悪に至るのである。

 これが第19巻の議論です。現在の地上生活においては、神の都と地の都とは、混合して生活しているのです。

その混合して生活しているこの世の地上の状態において、神の都の民の幸福は、いかなる点にあるかというと、第一は、地の都の平和に与る。これは地の都の平和だから、役に立たないということは言えない。

静かな生活をするために、地の都の平和に与るようにしなければならない。しかし、神の都の民に固有な幸福、すなわち地の都の者と共同にしない神の都の民だけの幸福は、この世においては、完全にこれを得ることはできない。

ただこの世においては、信仰によってこれを受けるだけである。後来世に至って、初めて完全に実現する。この世において幸福はむしろ消極的なものであって、不幸の慰めとか、罪の除去であるとか、幸福の消極的方面に止まる。

地の国の平和に均霑(きんてん:各人が平等に利益を得ること)するとか、あるいは不幸の慰安、罪の除去といった、消極的あるいは寄寓者的な幸福の受け方に過ぎない。

真に自分が主人となり、また積極的に正義の徳を完成し、幸福であり得るのは来世であり、死んで初めて実現する。

この世においては、信仰によってこれを受ける。最後の審判によって、神の都の民は、至高の善に到達する。神を信じない者は、至高の悪に到達するのである。この世にいる限りにおいては、どちらも相対的である。

地上においては、神の都の民の幸福も、今言ったような意味で消極的であって、地上の平和に与るといった意味しかもたない。地の都の民の不幸も相対的であって、地の都にいる限りにおいては、彼らは彼らなりの平和をもっている。

神の都の民が幸福であって、地の都の民が不幸であるということが、相対的でなしに絶対的な意味で、混同しようのない状態で現れるのは、最後の審判に至ってである。

それまでは誰が幸福であるか、誰が不幸であるか、誰が正しいか、誰が正しくないかは、ちょっと見て分からない。信仰によらなければ分からない。状態は混合しているのであるという考えです。



     第20巻

 第20巻は、最後の審判について書かれています。

 第1章~第2章

 裁きは歴史の初めからある。最後の審判と言うが、最後に至って初めて裁きがあるわけではない。しかし現世にあっては、悪人が生を楽しみ、善人が苦痛を受けることがある。

悪人がこの世を楽しむのは、来世において罰を受けるためである。善人がこの世で苦しむのは、来世の祝福を受けるためである。

しかし、この世で悪人が苦痛を受け、善人が楽しみを受けることもあるから、神の裁きはいっそう測り難い。

要するに善人悪人の区別なく起こり得る事柄に心を用いることなく―――心配することなく―――最後の審判の日において、善人にだけ与えられる幸福と、悪人にだけ与えられる刑罰とについてだけ、心を用いるべきである。

かつ最後の審判の日には、現世における神の裁きの意味も、ことごとく明らかにされることが、悟られるであろう。

 こういう思想は、前にたびたびありました。最後の審判と言うが、裁きは最後になって初めてあるわけではない。そもそもアダムとイブが神に背いたときから、裁きは既にあった。

それから後、引き続き絶えず裁きは行われているのであるが、しかし、この世における裁きは、なかなか人間の理性によっては、悟り難い点がある。悪人がこの人生を楽しんで、善人が人生を苦しんでいる例が非常に多い。

けれどもそれがいつまでもそういうものであるとすれば、それにはまた考え方がある。悪人がこの世において楽しむのは、最後の審判において罰せられて、来世において苦しむようになるためである。

善人がこの世において苦しむのは、それによって神を信じて、来世の幸福を得るためである。

この世と来世とが逆さまになるのであると言うのであれば、それはこの世において悪人が楽しみ、善人が苦しむということも理解できる。しかし、この世においては、悪人が苦しみ、善人が楽しむこともある。

 そうなってみると測り難い。神の裁きには理解し難い点がある。しかし要するに人生における善も悪も、それは正しい人にも正しくない人にも、一様に起こってくると考えなければならないのだから、そういう事柄について、深く心を労する必要はない。

最後の審判において、善人だけが得る幸福を求め、悪人だけが受ける刑罰を逃れるように、今から心を用いなければならない。今は信仰によってそれを知るのであるが、後にはそれを目で見ることができる。

またこの世において神の裁きの不可解な点は、最後の審判になれば、すべての意味が分かるだろう。

アウグスティヌスの言っていることは正しいですね。私たちはそれを覚えておかなければなりません。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 

矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.149

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 4月 1日(木)07時47分46秒
  (「第30講」その2)
(「第20章」その2)



 これに付け加えて、神は人を支配し、霊魂は肉体を、理性は欲情その他の方面の劣った部分を支配するではないかと、キケロが言った。真にある者にとって、服従は有用である。

ことに神に仕えることは、すべての者に有用である。だから、人が神に仕えないところには、正義はない。この点から言っても、ローマは真の共和国―――真の国―――であると言うことはできない。

 人民―――国民と言ってもいい―――の定義について、もう一つの説を挙げよう。いわく、人民とは、理性的存在が、その愛の対象についての共通の認識によって結合された集団であるという説である。

これに従えば、人民の特性を知るためには、それが愛するものが何であるかを見ればよろしい。右の定義によれば、ローマ人は人民であり、その社会は国であるが、真の神の戒めに従わない国は、どのような国でも真の正義をもつと言うことはできない。

 アウグスティヌスは、この問題、すなわち国民の本質、性質および正義の性質という問題についてはこれ以上論じていません。自分の説を積極的に述べるというよりも、人の説を引いて、簡単に批評しているに過ぎないのです。

この権利についての学説は、古来二通りある。一つは唯物論的に考えて、強者が弱者を支配する利益、これが権利の内容である。権利というものは、それから起こってきたものである。

元来は暴力的な力であったが、これを秩序化したものが、権利という名で呼ばれるようになったのだという説明をする説があります。アウグスティヌスは、その説明には賛成していません。

 正義が権利の内容であるという説に、賛成しているのです。ですから権利を認めることは、正義の支配を承認することに他ならないのです。

 ところで、その権利義務の関係がなければ国家はできないが、その治める者の権利、治められる者の義務を共同に承認しなければ、国にならないのですが、その権利の内容は何であるかと言うと、正義である。権利義務の内容は正義である。

正義がなければ権利もなく、権利がなければ国もない。権利がなければ、人民もないのです。権利によって組織立てられない人々の集団を、国民もしくは人民と呼ぶことはできない。烏合の衆です。

それでは正義とは何であるか。各々の者がその分を尽くすことが正義である。そうしてみると、アウグスティヌスの議論がずっと飛んで、真の神には真の神が受けるべき分を与え、悪鬼には悪鬼の受けるべき分を与える。それこそ正義の根本であるではないか。

ところがローマ人は、真の神を拝まず、悪鬼を拝んでいる。偶像を拝んでいる。礼拝を受けるべきものは真の神であるのに、真の神を礼拝しないで、真の神に与えるべき礼拝を悪鬼に与えているのだから、正義が根本から蹂躙されている。

そういうローマ人の社会であるから、その社会は、正義に立脚していないのが当然である。だからこれは、本当の国と名づけるべきものではない。国という名に値しないという意見です。


 第二の点は、服従という問題です。キケロは「共和国論」という本で、ローマが属領を支配していることは、正義に適っているか否かを問題にして、それが正義に適っていることを主張している。

その根拠として、服従は属領民にとっても有利である。なぜなら、彼らはこれによっていろんな権利を受ける。十分発達していない者が発達している国の正当な一員として教育されるのだから、服従は彼らにとって有用である。初めから自由で勝手放題なことをさせておくと、反ってよくないとキケロが言っている。

肉は霊魂に従い、霊魂は理性に従い、理性は神に従うという風に、従うべき者に従うのが良いのであると、キケロが言っている。


 これに対してアウグスティヌスが言うのには、それはそうだ、服従はある場合において、有用であることが多い。例えば子どもは、親の権威の下にあって、服従しなければならない。

あるいは未開の地方の人々には服従そのものが、害悪であると言うことはできない。

しかし、服従関係の根本は、神に仕えるということでなければならない。そこで下の者が上の者に服従することは有用であるが、しかし、その支配する者自身が神に仕えていないところには、正義はあり得ない。そういう意味から言っても、ローマは真の国とは言えない。

ローマが地方(プロヴィンス)を支配している。プロヴィンスがそれに服従することは有意義であるとしても、ローマ自身が神に仕えていないのだから、ローマの支配は正義であるとは言えない。

 そこに述べられていた人民の定義によると、人民というのは、人民の愛するものを共通にして結合されている集団である。

この定義に従えば、ローマの人民も一つの人民であるが、しかし、何を愛するかというと、真の神を愛しているのではないから、これも本当の正義に基づいた国とは言えない。

大体彼の趣旨は分かるでしょう。真の国は真の神を愛し、真の神に与えるべきものを与え、真の神の戒めに服従する。そこにおいてだけ真の正義があり、真の正義があるところに初めて真の国があると言うのです。

だからキリストが、「神のものは神に返し、カイゼルのものはカイゼルに返せ」(マタイ§22:21、マルコ§12:17、ルカ§20:25)と言われた諺がありますが、帝国時代のローマで言えば、カイゼルが人民を集団として結合する中心、すなわち愛の対象です。

カイゼルを中心として結合している集団であるから、ローマは国民をなしている。しかし、それが真に国であるためには、カイゼルにカイゼルのものを返すだけでなく、神のものは神に返さなければならない。

そこにおいて、初めて正義がある。各々にその受けるべき分を与える。真の神を拝せず、真の神を愛の対象としていなければ、いくらカイゼルを中心として結合されても―――この世の意味においては国であり得ても―――、真に正義の国ということは、できないのです。

アウグスティヌスの意見を私たちが言い換え、敷衍して言ってみれば、そういう意味でしょう。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.148

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月31日(水)08時23分39秒
     第30講 第19巻 第18章~第19章・第20巻・第21巻 第1章~第16章
                           1941年3月1日

 今日は第18章からです。書いてください。

 第18章

 懐疑派―――前にあった新アカデミー派―――の議論では、神の都を虚偽として排斥する。何でも疑うべきであって、確実なものは少しもないという考えは、これを排斥する。

神の都の者は、霊魂と理性とによって悟られる事柄を、最も絶対的に確実であるとする。ただし、朽ちるべき肉体が、魂を圧迫することにより、その知識は限られたものである。

神の都に属する者はまた、霊魂が肉体の助けによって用いる、感覚の証明を信じる。感覚は、欺かれることはあるが、感覚を信じないという者の方が、いっそうひどく欺かれる。

それはまた、新旧約聖書を信じる。その中に、正しく生きるべき信仰の源があり、それによって私たちの体が、主(神)を離れている間、疑いなしに歩むことができるのである。

この信仰が堅く立つ限り、上に述べた三点に属しない事物について疑いをもつことは、差し支えない。

 それが、第18章の大意です。疑うことのできないものが、三つある。一つは霊魂と理性によって悟り得る事柄、その二は、感覚によって知り得ること、第三は、聖書に書いてあること、それ以外の事は、疑ってもいいという意味です。

 これは、前々から何度もあったが、神の存在と理性の働きとを信じるならば、それ以外のことは、何を疑っても迷うことはないと言うのです。前にあったから、それ以上説明しないでも良いでしょう。



 第19章

 神の都は、神の戒めに一致して生活する限り、服装および生活様式を限定しない―――これはずっと前にあった、犬儒派、キニケのような、簡素な生活をしなければならないという意味ですね―――。

哲学者がキリスト者になる時、彼らはその誤った学説を捨てなければならないが、服装や生活様式を捨てるには及ばない。これらは、信仰に何ら妨げにならない。

瞑想的、活動的、複合的な生活についても、どれが一番良いかについても、真理と義務の要求を無視しない限り、いずれでも差し支えない。清い余暇は、真理の愛のために願わしいものである。しかし、必要な事務をとることも、愛の必然である。

もし誰一人としてこの重荷を私たちに課する者がなければ、私たちは自由に真理を思索し得る。しかしもし、その重荷が課せられたなら、私たちは愛のためにそれに従事する必要がある。

けれどもこの場合においてさえも、私たちは思索の楽しさを、全然捨て去るべきではない。これがない時は、その重荷は、私たちにとって耐え難いものとなるであろう。

 説明しておきます。初めにあった服装や生活様式の問題はどうでもいい。信仰の本質問題でないから、こういう服装をしなければならないということは、間違っている。服装や生活様式の問題は、何でもない問題ですが、ずいぶんおかしな事が、行われるのですね。

 その次の瞑想生活―――静かな生活―――が良いか、活動的生活が良いか、両者を混合するかというと、これも信仰問題としてはどうでもいい。

ただ、後に述べたことはアウグスティヌス自身の体験であって、彼は教会の監督をしたのですが、その当時の監督の仕事は、今の教会の監督よりも、もっと忙しい。

説教とか、葬式の他に、いろんな身の上相談や、教会の裁判などもしなければならなかった。非常に忙しくて、アウグスティヌスは勉強する暇がなくて、大変困ったのです。

そのことと思い合わせてここに書いてあることを読むと、アウグスティヌスの気持ちを私たちは察することができます。



 第20章

 神の国の至高善は、すべての悪から完全に自由な、永遠の平和である。したがって来世が最も幸福なものであるが、来世を熱心に愛しかつ望みつつ、その来世に関連させてこの世を用いるならば、その人は現世においてさえ、幸福と呼ばれる。

 しかし、来世の希望なしに現世の幸福をもつことは、虚偽の幸福、深い不幸に他ならない。

 現世と来世との関係です。



 第21章~第24章

 正義について。

 哲学者キケロの ”De Republica”「共和国論」の中で、スキピオ―――その中に出て来る人物―――は、国―――Republicaのことです。Republicaのことを共和国と言うが、今日の共和国とか王国と言うよりも、一般に国、この世の国のことを言う語です―――は、人民の福祉であると定義したが、この定義に従えば、かつてローマ国は存在したことはない。

なぜなら、人民の福祉が、ローマ人の間で獲得されたことはないからである(第2巻第21章参照)。

 キケロのこの本は、スキピオが出てきて、国家の問題について問答するような形に書いているが、前に筆記してあります。第2巻第21章にキケロの本のことが述べてあり、国の問題については、アウグスティヌスがそこで、また後に機会が来た時に、再び論じると言っているのです。それを、今論じているのです。

 スキピオの定義によれば、人民とは、権利の共同承認および利害関係の共同によって、結合された集団である。そして権利の共同承認とは、国は正義によらなければ、治められないという原則を意味する。

それゆえ、真の正義がない時には、権利はあり得ない。権利は強者に有用な手段であると解する説は誤りである。

正義のないところに人民はなく、人民のないところに人民の福祉はなく、そこにあるものは、ただ人民の名に値しない烏合もしくは混合の民衆だけである。

さらに進んで考えると、正義は各々の者に、その受けるべき分を与える徳である。だから人が真の神を捨てて、悪鬼に身を委ねるとき、どこに人の正義があるか。

キケロは正義を強く弁護し、ローマが地方―――英語の provinceで、今日の言葉で言うと、本国に対して属領とでもいうほどの意味―――を支配するのは不正義ではないか、という問題に対し、正しく治められるなら、服従は地方民―――属領の者―――にとって利益があるとした。

 ローマの市民権をもっている者は、地方の人間とは権利も違っていました。後にローマは政治上の政策として、地方民に、ある限られた自由権を与えたが、ローマの本来の市民権と比べると、地方の者の権利は少なかった。そして権利をもたない者は、もちろん全く服従しなければならない。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.147

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月30日(火)08時24分57秒
  (「第29講」その4)

 第15章~第16章

 奴隷について

 神はその理性的被造物、すなわち人間が、非理性的動物を支配することを定められたが(創世記§1:26を引用している)、人が人を支配することを命じられたのではない。

原始時代において、義人は家畜の牧者とされたが、人の王とはされなかった。奴隷の状態は、人の自然ではなくて、罪によってもたらされたものである。聖書の先祖たち―――族長―――は奴隷をもち、この世の生活の幸福に関しては、奴隷と自主の子との間に区別を立てたが、永遠の幸福のために神を礼拝することにおいては、家族の全員に対しては、平等な愛をもって見た。

これは、自然の秩序に適ったことであって、真の家長である者は、家族の全員が、その者が子であるか奴隷であるかを問わず、等しく神を拝することを欲し、かつ努力すべきであるが、人が人を治める必要のない天の家庭が来るまでは、奴隷がその服従を義務と感じる以上に、主人はその権威の地位を義務と感じるべきである。

このゆえに、家族のある者が不服従によって家庭の平和を妨げるときは、言葉または鞭打つことによって、これを正す。

 奴隷のところは簡単に言ったが、アウグスティヌスの言う趣旨は、家庭の平和というものは、治める者と服従する者との間の服従にあると言った。

彼が言うには、奴隷の存在は、自然の状態ではない。聖書に奴隷という文字が初めて記されるのは、ノアの洪水の後のことである。

ノアがお酒に酔っぱらった時に、ノアの子どもが失礼なことをした。それに対してノアは、「カナンはセツの奴隷たるべし」と言った(創世記§9:25)。そこで初めて、奴隷という語が言われた。それから見ても、奴隷は罪の結果起こったものであるということが分かります。

 ラテン語の servus という語は、 servare という語から出た。 servare という語は英語でいうと、 preserve という語に当たる。保存するという意味です。

それは、戦争をして捕虜ができると、殺さないで―――戦争の捕虜を殺すことは、戦争法規の許すところであったが―――生命を保存して、これを奴隷として用いた。これが奴隷の起源である。

こういう点から考えても、奴隷というものは、罪の結果であることが分かる。このノアの子どものことと servare をアウグスティヌスは並べて書いており、それ以上に詳しく述べていませんが、奴隷の起源には、いろいろの説がある。

むしろいろんな場合があって、戦争によって敵を奴隷にしたのが多くの場合ですが、そうでなくても、同じ種族の中でも犯罪者を奴隷としたという例がある。

 奴隷の起源は、同種族内の犯罪者、違った種族の戦争で負かした捕虜、この二つが奴隷制度の起源のようです。どちらが多いかと言えば、むしろ戦争の場合の方が、実際は多いようです。アウグスティヌスが挙げているのは、たまたまこの二つに当たるのです。

ノアの子どもで罪を犯した者が奴隷とされたのは、同じ種族内で犯罪者が奴隷とされた例の方です。いずれにしても、奴隷というものは、罪の結果である。

戦争による奴隷の場合、仮に、アウグスティヌスが述べたところですが、その戦争が義戦である、正義のための戦争であると言われても、戦争そのものは罪の結果であるという立場は覆されることはない。

 理想的状態には、人が人を治めるということは、ないのである。けれども今日の現実の社会は、未だ人が人を治める必要がない天の家庭として成立していないのだから、主人たる者の権威、地位が正しく用いられるためには、家族の一員が服従しない時には、罰するということは、止むを得ない。


 最後のところを読んでみます。

 私たちが罪を犯した人に害を加えるだけでは足りない。彼の罪を止め、その罪を罰することをして、この経験によって、益を得させる。あるいは彼の例によって、他人に健康を与えるということをしなければならない。

 だから家族の一員が、服従しなかった時、本人の益にさせるため、また他人に益を与えるため、そして罪を止めるために、これを罰するということをしなければならない。「かつ」こういうことを言っている。

 かつ家族というものは、国すなわち町の初めであり、もしくは構成要素であるから、家の平和は国の平和と関連をもたなければならない。したがって、家長たる者は、その家の支配を、国の法律に準じて、制定しなければならない。

 これは、非常に現実的な言い方であって、家というものは、国を構成する単位であるから、国の法律に従って、家の制度も作らなければならないのだ。

国全体が奴隷制度を認めて、国全体が国全体として、奴隷を打つ、あるいは叱ることを合法的だとしているのだから、家もその国の法律に準じて奴隷を扱わなければならないと言っているのです。

 だからアウグスティヌスの奴隷制度に対する考えは、次のようになります。

奴隷制度は、人間が人間に対して取るべき態度ではない、立てるべき制度ではないから、奴隷制度がないことが望ましいのである。

また主人たる者は、権力によってではなく、義務として奴隷を治めるべきであり、ことに礼拝に対する関係においては、奴隷を自分の子どもと区別せず、一様に扱わなければならないのである。

しかし奴隷を叱るということ、あるいは鞭打つということは、罪を抑制するという点から言っても必要だし、また国の一般社会の法律に準ずる点から言っても、そうしなければならない。


この最後に述べていることは、なかなか面白いですね。家の制度というものは、一般社会の制度と切り離して立てるということは、事実上非常に困難であるし、またそれを強いてするならば、反って社会に対して害を及ぼし、社会の平和を乱すことになる。

奴隷制度もそうで、社会一般に奴隷制度が行われている時に、自分の家庭だけ奴隷を解放することをすれば、よほど弊害を予防する方法を取らないと、奴隷そのものも不幸な目に会うし、また社会全体に、良い影響を及ぼさない。

今日の資本主義社会において、それはよく言われることです。資本主義社会には、賃金労働者がいます。それを自分の工場だけ止めてみる。よほど弊害を予防してやらないと、何者も利益を得ない。自分のところの召使も利益を得ないし、また社会も利益を得ないということになる。

アウグスティヌスが述べていることは簡単ですが、そういうことを言っているのです。



 第17章

 信仰によって生活しない家族は、彼らの平和を、この世の地的便宜の維持に求める。

ところが、信仰によって生きる家族は、この世の地上の便宜を、むしろ魂を圧迫する朽ちるべき肉体の重荷をたやすく耐え、かつその重荷の数を減らすために用いる。

地上の生命に必要な事物は、両種の人および家族によって、等しく用いられるが、その目的を大いに異にする。

この世、この地上の生活は、二つの都―――神の都と地の都―――に共通であるから、世に属する事物については、両者の間に、二つの都の間に、調和がある。

ところが地の都は、人の生活の各部に対し、多くの神々を割り当てるのに反して、天の都の民は、ただ一つの神ありとする。すなわち、二つの都は、宗教については共通の法をもたない。

天の都は、信仰を損なわない限り、地の平和を利用し、生活に必要なものの獲得について、人々の間における共通の一致の維持を欲し、そしてこの地的平和を天の平和に関連させる。

すなわち完全な秩序と調和の天の平和を信仰によって保ちつつ―――未だ現に所有していないから、信仰によって望んでいる状態である―――地上における神と人とのためにする、すべての善い行為を、この天的平和の到達に関連させる。なぜなら、天の都の生活は、社会生活であるからである。


 第5章からそこまでは、非常に長かったのですが、哲学者が言う幸福な生活のためには、孤立した生活がいいか、社会生活がいいかという問題に対して、これは社会生活でなければならないということについての、アウグスティヌスの答弁であるのです。


 最後に言ったところは、地上生活は神の国の人と、この世の人の間に調和があるということです。

一番大きい問題は、経済生活あるいは政治上の生活でしょう。社会生活である限りにおいて、両者に共通点がある。したがってその平和を欲するのだ。

しかし、この世の人は、その生活の中に人生の目的を見出しているし、それから神の都の人は、これを天の都の完全な平和の獲得に関連させて考える。

だから動物ならば肉体の健康および生命維持ということが目的であって、それだけであるが、理性的人間は、肉体の健康と生命維持を霊魂の平和に関連させて、そのために肉体の健康を維持することを考えている。

けれども天の都に属する者は、この霊魂と肉体との生命、つまりこの地上の生命を、終極の問題とは考えないで、これは天の都の平和に到達する階梯として、それに関連させて意味を見出す。

そこに人生の態度の違いがあるが、地上生活においては、地上生活の便宜に関する限り、この世の人々との間に共同一致の生活を維持しなければならないという意味です。

 今日はそこまで。


(「第29講」完)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.146

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月29日(月)07時52分8秒
  (「第29講」その3)
(「第13章」その3と「第14章」)


 もし自然が善であると言うならば、鉛筆は善であるか。鉛筆というものは、ある秩序をもっているから、鉛筆が鉛筆の平和の状態にあると言うことは言えますが、鉛筆というものが善であるか。

あるいは、こういう花か書物がある。書物は善であるかというと、私たちが普通に考えている善とは、少し概念が違いますね。私たちは、道徳的に善悪ということを考える。

この花が善であるか悪であるかというときと、私たちが言うような場合の意志の問題としての善悪とは、違って見ています。

 その点は、アウグスティヌスが言っていることは、これだけではあまりに簡単であり、私たちにはよく分からないが、悪魔の自然は善であるが、彼の意志は悪であって、彼の意志によって、自然の秩序が倒錯した。

それが悪であると言っているのであるならば、善悪というものは、意志にあると言わなければなりません。善悪が自然にあるのであるならば、いかに意志によって倒錯しようとも、自然はやはり善である。

アウグスティヌスの立場によると、自然は自然である限り、悪ではない。悪は悪なりに悪の秩序の中にあるというのであるならば、ひっくり返しになっているものでも、それはそれとして善であると言わなければならない。

意志が善悪を決定するのではなく、善悪は自然にあると言うならば、意志は無関係である。

等しく善悪という言葉を用いても、アウグスティヌスの持論のように、自然に存在しているものはすべて善い、善なる神は万物を善に造られたと言うことと、その自然を悪魔もしくは人の意志が倒錯したのであり、意志が神に反逆したことが悪であると言うこととは、等しく善悪と言っても、意味が大いに違う。

あるいは、道徳の世界においては、善悪は意志の問題であると考えなければならないでしょう。

存在そのものが秩序の中にあって、秩序の中にあるものは善であるという考え方と、善悪は意志の問題、すなわち行為の問題であるということは、問題が違う。等しく善悪と言っても、意味合いが違う。意志の問題と言えば、鉛筆などというものは、善悪ではない。

鉛筆なり花なりの存在は、それは秩序の中にあって、秩序の中にあるものは、平和と言おうが、あるいは美と言おうが、それは存在の理由があって存在しているのであって、無意味なものではないという意味において、存在の理由がありますが、意志の問題としての善悪の範囲に入ってこない。

それで、存在の意味というものと、道徳の善悪という問題とは区別して考えた方がよくはないかと、私たちは素人流に考えます

存在はむしろ美の問題であって、善の問題ではない。美は調和にある。善は、意志が意志の根源である神に対する調和にあって、それが善である状態である。意志の根源である神に対して、人間の意志が調和していない、反逆している、それが悪である。

そこまで行けば、同じ根源すなわち神から出るものであるが、事物と事物の自然の秩序は、善悪ではなくて、これは美の問題である。意志と意志との調和の問題、これが善悪の問題である。

だから人間と人間との間の調和も、人間と人間との間の意志の調和が、人間社会の道徳問題としての平和である。人間と神との間もそうである。

 そういうふうに考えたらどうか。そうすると、アウグスティヌスが第13章の最後に言っていることは、私たちが今言ったような説明に近くなっているのであって、空気とか水というものは、善でもなく悪でもない。

これを有用なものとして神が造られ、人間の生活の便宜として与えておられる。存在としては、これは有用なものであるし、美しいものであるし、無益なものではない。けれども空気そのものに、善も悪もあるわけではない。

これは、これを人が善く用いれば善くなるし、悪く用いれば悪くなる。すべての事物がそうであって、人間の肉体もそうです。

肉体も肉体そのものは神が造られた自然であって、他の自然と肉体とが、調和を保っている。また肉体の各部分も、調和を保っています。それによって、肉体は存在の生命をもっている。存在の美をもっている。

肉体そのものは、善でもなく悪でもない。これを意志が善く用いれば善となり、意志が悪く用いれば悪になる。よく用いれば肉体は不死―――永遠の生命―――に入るし、悪く用いれば永遠の刑罰に入る。

肉体的(生物的)の生命そのものは美しいものであり、楽しいものである。生命として造られているものを、意志によって神に対する調和にもたらせるならば、非常な喜びとなる。ところが、神との不調和にもたらされるならば、生命があるということが、不幸になる。すなわち死んでしまう方が幸福だということになる。

生命をもって神に反逆するために、自分たちの生命を使う、またその罰を自分たちの生命が永遠に感じるというのであるならば、生命があるということは、少しもいいことでなくなってしまう。

 これはいろんな問題を含んでいますから、なるべく必要な所を、アウグスティヌスの言葉どおりに翻訳して、筆記していただいたのです。



 第14章

 第14章は分かり易い所であり、大意は既に説明したことですが、便宜上これも書いておきます。

 地上の事物の使用は、地上の社会における知的平和に関連を有する。もし私たちが非理性的な動物であれば、身体各部の調和と情欲の満足、すなわち肉体の慰安と快楽の豊かなことを求め、

この肉体の平和が、魂の平和に貢献し、肉体と霊魂の相互的平和によって、調和ある生命と健康との平和を求めるに過ぎないであろう。

 ところが人は理性をもつから、彼が獣と共通するこれらのことを、彼の理性的霊魂に従わせ、彼の知性の自由な働きによって、自分の行動を規律し、そうして秩序と行動との秩序立てられた調和を楽しむ。これは、私たちの理性的霊魂の平和を言っているものである。

 ところが人は、主たる神に従わなければ、誤謬に陥り易いものであるから、その自然的もしくは霊的もしくは両者の平和を、死ぬべき人が不死の神との間にもつ平和に関連させ、かくして永遠の法に対する秩序ある服従を示すのである。

 ところが、神は神を愛することと、隣人を愛することとの二つの戒めを与えられたのであるから、人は自分と共にあるすべての人々と、秩序ある調和において、平和にいることを欲する。

こうして、家族が最初の注意の対象となる。これは、自然ならびに社会の法が、人に最も接近しやすいものとしたところであるからである。これが、家族的平和すなわち家族内において、治める者と従う者との間における、秩序ある調和の起源である。

けれども、天の都の民である正しい人の家庭においては、治める者さえ、その支配される者に仕える。それは、彼らが権力愛によって治めるのではなく、義務感によって治めるからであり、権威の誇りによってではなく、憐れみを愛して治めるからである。


 説明しておきます。たいてい、説明しないでも分かると思うが、非理性的な動物の生活の目標は、身体の各部の調和ということと、それから肉体的欲望を満足させることによって、生命と健康との平和を維持するというだけのことである。

だから豊かに食物を得て、肉体がこれによって調和を保つならば、動物の霊魂も平和を感じる。そして体と霊魂との間にも調和ができる。体と霊魂の調和ある生命が維持される。

人間も、肉体をもっている限りにおいて、それをする。すなわちお腹が空けば食物を求める。それによって、肉体の身体各部に調和をもたらす。それによって、人間の霊魂も平和を得、心も平和を得、霊魂と肉体の両者を調和状態に入れ、生命と健康を維持する。

けれども、それだけでは終わらない。理性的存在者として、知識をもって自分の行動を規律することをする。知識と行動との調和が、理性的生物(理性的存在者)である人間の平和に必要なものである。

けれども、その知識は不完全なものですから、神との間に調和ができていないと、間違いに陥る。知識も行動も誤りに陥る。完全な調和、すなわち平和を得ることはできません。

それで、神との調和に入ることが、人間の平和を実現するために必要なものであるが、その神との調和の内容は何であるかというと、神を愛することと、隣人を愛することである。

そこで結局神と人間との平和を維持するためには、人間社会の平和を必要とするのである。一番注意を向けられる手近なものは家庭で、それは自然の法によっても、社会の法によっても、一番接近しやすい。

 家族間の平和を求める。ところが、家族間の平和は秩序であるから、治める者と治められる者との間に、秩序関係がある。これが平和の内容である。

しかし、この秩序というものも、天の都において正しいものの秩序というものは、この世の都の秩序と違って、単なる権力に対する服従関係と考えてはいけないということですね。


(以下次回に続く)

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矢内原忠雄土曜学校講座アウグスティヌスの『神の国』No.145

 投稿者:旅人メール  投稿日:2010年 3月26日(金)06時46分35秒
  (「第29講」その2)
(「第13章」その2)


 このゆえに、悪がその中に存在しない、もしくは存在できない自然はあるが、善がその中に存在し得ない自然はない。

悪魔そのものの自然でさえ、それが自然である限り、悪ではない。それは倒錯されたことによって、悪とされるのである。それゆえ彼は真理に止まらないが、真理の裁きを免れない。秩序の平安に止まらないが、秩序を立てられた者の力を免れない。

神が彼―――悪魔―――の自然に賦与された善も、彼を神の裁きから守らず、彼が罰せられることにおいて、秩序は保たれるのである。また神は、神が造られた善を罰するのではなく、悪魔が犯した悪を罰されるのである。

神は悪魔の自然に賦与されたものを、すべて取り戻したのではなく、あるものを取り戻し、あるものを残され、これによって取られたものの損失を感覚するに足りるものが残されるのである。

その苦痛の感覚そのものが、取り去られた善と残された善との証拠である。なぜなら、何も善なるものが残されないなら、失われた善のために苦痛を感じることもないであろう。

罪を犯す者が、もし己の義の喪失を喜ぶならば、それだけいっそう悪い者であるが、苦痛を感じる者は、少なくとも健康の喪失を悲しむのである。そして、義と健康とは、共に善いものであり、そして善いものの喪失は悲しむべきことであって、喜ぶべきことではない。

だから善なるものを捨てた罪人の喜びが、悪い意志の証拠であるように、彼が罰されるときにおける、その失われる善に対する彼の悲しみは、善い自然の証拠である。

なぜなら、自己の自然の失われた平和を悲しむのは、彼の自然の中の平和に対して、親しみある―――親密を感じる―――ある平和の残り物があることによって、これを悲しむのである。


 説明しておきます。

 前段においては、平和という問題を述べたのですが、途中から善悪という問題に論点を移してきている。平和は秩序の中における調和であるという議論をしてきていたが、事物自然の秩序は、事物の自然であると言った。

今度は、事物自然の秩序なるものは善である。これに反することが悪であるというふうに、論点が移ってきたのである。

 そうしてみると、アウグスティヌスの考えによると、いやしくも自然を備えているものは、その限りにおいて善である。秩序なしには自然はないのであるし、その秩序は平和であって、平和は善である。ゆえに自然は自然である限りにおいて善である。

 最も極端な例を取って、悪魔というものをアウグスティヌスが出した。悪魔も自然である。悪魔も一つの理性的な存在として神に造られた。

ところで、天の使いが堕落したのが悪魔であるから、その堕落したのは、悪魔の意志によって逆立ちした―――倒錯した―――のであって、それが悪魔である。

しかし、逆立ちしたとはいえ、自然である限りにおいては、悪魔にも善が残っているのだ。悪魔にも平和の遺物があるのだ。悪魔にでも悪人にでもあるのだ。それがなければ、苦痛を感じることはない。

悪魔が最後の審判を受けて苦痛を感じる。なぜ苦痛を感じるかといえば、善が中に、健康もしくは義に対して親しむという、何かそういう自然が残っていればこそ、その義の喪失もしくは平和の喪失を苦痛に感じるのです。

苦痛というものは、自分がもっている善が失われることがすなわち苦痛だが、それを苦痛と感じるのは、自分に善があるからだ。

肉体の病気は、なぜ苦痛に感じるのか。健康が害されているから苦痛に感じるのであるが、なぜ苦痛を感じるのであるか。健康が残っているから苦痛を感じるのです。全く死んでしまえば、苦痛をも感じない。

悪魔がそうであって、悪魔の自然の中に善の喪失を苦痛と感じるだけの善も残っていないとすれば、悪魔がどれほど刑罰を受けても、苦痛を感じない。苦痛を感じなければ、刑罰にならない。永遠の刑罰の意味がない。

聖書には、永遠の刑罰のことが述べられています。悪魔が永遠に苦しむということは、苦しむだけの自然が残っているからだというのが、アウグスティヌスの議論です。

中国の哲学では、荀子は性悪説、孟子は性善説を唱えました。アウグスティヌスは性善説を取っている。性すなわち生れつきの自然は善であるという意見です。

 途中を略しますが、第13章の筆記をもう少ししておきます。

 すべて自然万物の最も賢明な創造者であって、最も正しい規律者である神は、人類を地の最大の装飾として置かれたのであり、地上の生活に適する善いもの、すなわち一時的平和――― 一時的というのは、永遠に相対した、この世の平和―――を、人に賦与された。

例えば私たちがこの生涯において、健康、安全、交友ならびにこの平和の維持と回復に必要なすべての事物、すなわち私たちの外的快楽に役立つべきもの、光を始めとして、空気、水、ならびに身体を支え守り、癒し、もしくは美しくするために要するあらゆるものを人に与えられた。

そして、この世の状態の平和に適したこれらのすべての便宜を善く用いる人は、より豊かで、かつより善い祝福、すなわち永遠不死の平和を受けるであろう。これに反し、現世の平和を悪用する者は、それを失うだけでなく、永遠の浄福をも受けないであろう。


 説明しておきます。

 最後の一段は、この地上生活において享有する諸種の便宜についての考えであって、先ほどから言っているように、アウグスティヌスは自然を善なるものと考え、

その自然の中でも人間は地上における存在の中では、最も優れたものとして、神が造られたのであって、この地上において、平和な生涯を送るために必要なものを、人に与えておられる。これは、すべて善なるものである。

ところで、これら善なるものを善く用いる人は、この世の生活よりもさらに善い生活、すなわち来世における永遠の平和を得るが、与えられている善なる自然を悪用するものは、それを失うだけでなく、また永遠の幸福を受けない。

 これについて、私たちは深く論じている暇もないし、また論じるだけの能力もありません。

しかし、アウグスティヌスは、平和ということで、人間社会の平和を論じることが彼の主眼であったのですが、単に人間社会の平和ということに限定しないで、それを下っては物体の平和、上っては神と人との平和というところまで考え、一面的に平和という問題を解決しようとした。これは、先ほど言ったように、プラトン学派の影響です。

 そうしてみると、物体例えば鉛筆というものに平和がある。鉛筆は、与えられている各部分―――鉛筆の芯と木との部分―――に調和を保って秩序の中に置かれているから、鉛筆は調和の状態にあるというふうなこと。

人と人の間の関係でも、人と人は秩序立てられた調和の中にある。それが社会の平和である。神と人との間の平和もそうだというふうに、秩序における調和の中に平和を見た。

 その問題は、今まで述べてきたところで、ほぼアウグスティヌスの立場は分かりますが、これをさらに一歩進んで、事物自然の秩序を反面から言うと、存在している自然は、すべて秩序の中に存在している。

秩序がなければ存在がないということから善悪という問題に転じてきますと、アウグスティヌスが言っている意味での善というのは何であるか、悪というのは何であるかということが、問題になってきましょう。


(以下次回に続く)

関連ブログ 内村鑑三現代訳 http://green.ap.teacup.com/lifework/
 

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